2015年 05月 06日

摩耶観光ホテルについて41(資料38)

資料紹介41 映画「春日和」における摩耶観光ホテル(旧・六甲ヒルトップギャラリー蔵)、1966年冬~67年初頭?

 1967(昭和42)年4月29日に公開された『春日和』ロケ時に撮影されたと思われる写真。これは「六甲摩耶観光推進協議会」が2007(平成19)年から13(平成25)年頃まで運営していた「六甲ヒルトップギャラリー」に所蔵されていた六甲摩耶鉄道の「社史『六甲山と共に50年』の原稿に挟まっていたもの」(ヒルトップ当時の関係者)という。現在、同施設のあった建物は「TENRAN CAFE」としてリュニアル(2014(平成26)年8月~)されており、この写真も含め所蔵されていた摩耶・六甲山関連資料・写真群の所在は確認していない。ただこの写真については、2008(平成20)年12月に「竣工間もない頃の摩耶山温泉ホテル」の写真を提供いただいた際に、同じくその画像データを送っていただいたものである。その時に、ヒルトップ関係者から、ここに撮影された内容についての質問を受けたが、明確な確認・回答ができなかったため、当ブログでの紹介をしなかった。しかし今回、改めて確認作業を行ったので、それを写真とともに提示することにした。

写真1 「春日和」における摩耶観光ホテル

 前述のように、この写真は社史の原稿に挟まっていたものであることから、場合によっては社史に使用する可能性もあったと思われる。関係者によれば、写真には「山形勲、左幸子、栗塚旭、岩下志麻」の名前が「名前が小さくメモ」されていたという。これを元に関係者が調べた所、「1967年公開の春日和という映画と一致」したとのことであった。これにより、映画のロケ地としてマヤカンが使用された可能性がでてきたものの、それ以上のことは不詳であった。というのも、この「春日和」という映画は松竹が配給しているが、その後ビデオ・レーザーディスク・DVD、いずれもソフト化されておらず、吉川晃司主演の「ユー・ガッタ・チャンス」(マヤカンがロケ地となっている)のように、実際の映像としては容易に確認できないためであった(ネット情報では2011(平成23)年1月にラピュタ阿佐ヶ谷、および2013(平成25)年8月に神保町シアターでリバイバル上映されたようである)。この状況は現在でも変わっていないのであるが、以下にあげる資料・情報等から、この「春日和」でマヤカンがロケ地となった可能性が高いと思われる。

写真2 「春日和」ポスター

 まず映画は、舞台を基本的に東京から大阪に移して展開していくようである(ストーリーについてはこちらを参照)が、映画を実際に見たと思われる人物による紹介記事では「4人で、摩耶ケーブルで神戸を展望するシーンがある。たぶん、車両も今とは違うはず」と記述されている。ケーブルに乗って展望したのであれば、当時摩耶観光ホテルとして再営業していたマヤカンに行くのが自然と感じられる。

写真3 「春日和」スチール写真1:岩下志麻・栗塚 旭

 次にこの写真には確かに4人の人物がマヤカン屋上でパラソル付きのテーブルを囲んでいるが、実際に顔を確認できるのは左幸子と思しき人物のみで、岩下志麻(左手前)、栗塚旭(右手前)、山形勲(左奥)は後姿、手前の人物に隠れて判然としない。しかし、ここにあげた映画公開に併せて撮影されたスチール写真およびポスターと比較すると、岩下志麻が身につけているドレスがよく似ている点、栗塚旭はスーツ姿が基本となっている点、山形勲の頭髪の様子やポスターにあるスーツ姿がやはり似ている点などが確認される。ちなみにこの写真もスチール写真とも想定されるのであるが、出演者の大半の顔が見えていないため、ヒルトップ関係者は隠し撮りではないかと指摘していた。

写真4 「春日和」スチール写真2:山形 勲・左 幸子

 さてここに見られるマヤカンについて、前述のとおり主演者が話をしている場所は屋上であるが、以前紹介した資料の建物の形状等から判断して、ここはマヤカン復活に際して増設された5階部分、それも4人がいるのはグリルや宴会場と呼ばれた部分の上と考えられる。何度も言及しているが、この部分を含め、この写真で確認できる5階部分は、1970年代後半から80年代前半にかけて撤去されて現存していない。写真に見える主演者が囲むパラソル付きのテーブルは他にも複数確認できるが、当時の新聞記事での広告では「スカイビアガーデン」と記載され、また以前紹介した別の資料でも不鮮明ながらテーブル(パラソルはついていないように見える)・イスなどが並べられて様子が確認される。これらから、屋上部分が日常的に使用されていたと思われる。ただし、マヤカンが位置するのは、摩耶山中腹の標高420m付近、それも風の影響を受けやすい尾根上に立地している。こうした状況からすれば、ビアガーデンのように屋上の使用は基本夏季中心で、冬季はあまり使用されなかったと考えられる。
 ところが、この写真に見える岩下志麻や栗塚旭と思しき人物が座るイスにはコートがかけられていたり、写真左端の女性(エキストラか?)も革製のコートを着ているように見える。さらに背後に見える複数の人物もコートのような厚手での服装であるように感じられることから、季節は冬であったと判断できる。これは映画の公開が4月末であったためで、撮影はおそらくはその数カ月前、早ければ前年の1966(昭和41)年12月から遅くとも67(昭和42)年2月頃であったと推測される。出演者やスタッフは寒さで大変だったかもしれないが、マヤカンの歴史を考えると実に微妙な時期であったといえる。というのもこの年の7月には、神戸周辺での集中豪雨によりマヤカンは損傷し、ホテルとしての営業を休止している。つまり映画の撮影は、摩耶観光ホテル時代の最終期に行われたことになるのである。
 この点でもこの映画の存在は重要なものといえるが、そもそも摩耶観光ホテルは営業期間6年と非常に短く、第二次大戦前から戦中の摩耶山温泉ホテル時代と比較して、関係する資料自体が極めて少ない。その意味では、在りし日の摩耶観光ホテルを記録した映画「春日和」は、マヤカンにとって貴重な資料といえるものである。

謝辞:今回公開した写真は、旧・六甲ヒルトップギャラリー関係者のご厚意によるものである。ここに感謝申し上げたい。

# by nk8513 | 2015-05-06 10:12
2015年 04月 03日

摩耶観光ホテルについて40(資料37)

資料紹介37 摩耶鋼索鉄道株式会社発行の絵はがき、1929〜30年頃

絵はがき1
 ケーブル会社発行の絵はがき。下部に会社名および所在地等が記載され、裏面にも会社名が記載されている。摩耶山と思しき緑の山塊に天上寺の堂塔が記載され「摩耶観音堂」「摩耶夫人堂」と表記されている。その右にケーブル摩耶駅が記載され、ケーブル線が赤で太く描かれている(中間地点の上下線交差および下部のトンネルも記載)。下の高尾駅からは、そこまでの交通手段が描かれており、阪急電車の当時の終点「上筒井」および阪神電車・阪國電車(阪神国道線)の「大石」から赤いラインとともに自動車(おそらく乗合自動車)が記載されている(現在のJR線である「省線なだ駅」(灘駅)および阪國電車「神戸終点」(東神戸駅)からは赤の点線で上筒井まで記載されている。おそらくは徒歩ということか?)。
 発行年は記載されていないが、記載された乗合自動車線等からおよその年代を推定できる。ケーブル会社の社史『六甲山とともに五十年』の年譜によれば、上筒井—高尾間の「乗合自動車営業認可」は、ケーブル開通(1925(大正14)年1月6日)前の1924(大正13)12月27日、大石—高尾間の「路線延長許可」は1929(昭和4)年3月15日で同年6月1日から営業開始となっている。よって、この絵はがきの発行は早くとも1929(昭和4)年夏以降と思われる。
 一方、ケーブル会社の所在地について「神戸市熊内通一丁目」と記載しているが、これは社史によれば「神戸市葺合区熊内通一丁目19番地」であり、それが1931(昭和6)2月に「灘区箕岡通4丁目745番地」に移転している。以上のことから、この絵はがきは1929(昭和4)年夏から30(昭和5)年頃の発行と考えられる。ちなみに社史には、この絵はがきとほぼ同じ構図で1926(大正15)年発のものも掲載紹介されているが、乗合自動車は高尾—上筒井のみとなっている。

絵はがき2 裏面
 なおこのはがきの裏面には、切手を貼る部分ではない中央部に切手が張ってあり、また半紙が付いていて、そこに切手の位置に手書きで丸が記され、「日付印」と手書きされている。このことから、このはがきは購入者が実際に発送するわけではなく、主に記念用に使用するものだったとも思われる。最後にマヤカン(摩耶山温泉ホテル)について、この絵はがきが発行された同時期の1929(昭和4)年11月に開業しているが、絵はがきにはそれは記載されていない。おそらくは前述した1926(大正15)年発行のはがきの構図を流用しているためと思われる。

絵はがき3 裏面(半紙をかぶせた状態)

なお上記絵はがきは「摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料」で紹介していたが、ここで改めて紹介する。

# by nk8513 | 2015-04-03 12:35
2015年 03月 20日

摩耶観光ホテルについて39(資料36)

資料紹介36 絵はがき「攝津摩耶山ケーブルカー急勾配ノ景」など3枚、1925〜29(大正14〜昭和4)年頃?

 1925(大正14)年1月、摩耶山にケーブルカーが開通し、マヤカンこと摩耶山温泉ホテルが開業する1929(昭和4)年11月までの期間に作成・販売されたと推測される絵はがき。形態は1枚のはがきに2つの名所を紹介するというもの。作成者は3枚セットで入手したものの、おそらくはこの他に数枚程度加わって一つの絵はがき集となっていたとも考えられる。作成・発行者は特に記載はなく不明である。作成年を上記のように限定したのは、マヤカンが登場していない点、およびその後マヤカンが建てられる以前に、同じ場所に存在した「テント村」が登場することから判断した。ただし未確認の絵はがきにマヤカンが登場するものが存在しているかもしれないし、あるいはマヤカン開業後も「テント村」は周辺で設置されていたので、場合によっては、時期が1935(昭和10)年頃まで下る可能性も否定はできない。

絵はがき1 攝津摩耶山ケーブルカー急勾配ノ景・攝津摩耶テント村ノ景

 ここにある「テント村」は、ケーブルが開通した1925(大正14)年から、毎年7月上旬から8月末まで摩耶山遊園地周辺に設置されていたもので、別のリーフレットには「夏季テント村」とも表記されている。その場所は、マヤカンが営業開始した以後も設置されていることから、何ヶ所かに分散配置されていたと考えられる。ただしここに見られるのは、地形と近隣の山容からケーブル摩耶駅の東側斜面、すなわち現在のマヤカンが存在している場所である。

絵はがき2 攝津摩耶山ケーブルカーより神戸市を望む・攝津摩耶山摩耶食堂の内部

 ここで注目されるのが、左の「摩耶食堂の内部」である。細長いフロアにほぼ2列にテーブルクロス掛けられた四角形のテーブルに「サクラビール」(「帝国麦酒」製、後に大日本麦酒(第二次大戦後にアサヒビールとサッポロビールに分割)と合併)と表記されたイスが配されている。中央右手には厨房に続くようなカウンターも確認される。これと似たような構図は、マヤカン内にあった食堂の写真()でも見られるが、フロアの広さはまったく異なっているのでそれではない。ケーブル会社の社史(『六甲山とともに五十年』)の年譜には、1925(大正14)年5月31日に「摩耶駅付近に摩耶食堂開業 他に貸売店8戸開業」と表記されている。また以前紹介した絵はがきには、判然とはしないものの、それらしき施設が確認できる。よってここにみられるのは、表記の通り「摩耶食堂」ということになろう。天上や壁面から木造と判断されるが、なかなか洒落た雰囲気に感じられる。

絵はがき3 攝津摩耶山忉利天上寺本堂・攝津摩耶山忉利天上寺門前

絵はがき裏面

なお上記絵はがきは「摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料」で紹介していたが、ここで改めて紹介する。

# by nk8513 | 2015-03-20 13:49