2015年 04月 03日

摩耶観光ホテルについて40(資料37)

資料紹介37 摩耶鋼索鉄道株式会社発行の絵はがき、1929〜30年頃

絵はがき1
 ケーブル会社発行の絵はがき。下部に会社名および所在地等が記載され、裏面にも会社名が記載されている。摩耶山と思しき緑の山塊に天上寺の堂塔が記載され「摩耶観音堂」「摩耶夫人堂」と表記されている。その右にケーブル摩耶駅が記載され、ケーブル線が赤で太く描かれている(中間地点の上下線交差および下部のトンネルも記載)。下の高尾駅からは、そこまでの交通手段が描かれており、阪急電車の当時の終点「上筒井」および阪神電車・阪國電車(阪神国道線)の「大石」から赤いラインとともに自動車(おそらく乗合自動車)が記載されている(現在のJR線である「省線なだ駅」(灘駅)および阪國電車「神戸終点」(東神戸駅)からは赤の点線で上筒井まで記載されている。おそらくは徒歩ということか?)。
 発行年は記載されていないが、記載された乗合自動車線等からおよその年代を推定できる。ケーブル会社の社史『六甲山とともに五十年』の年譜によれば、上筒井—高尾間の「乗合自動車営業認可」は、ケーブル開通(1925(大正14)年1月6日)前の1924(大正13)12月27日、大石—高尾間の「路線延長許可」は1929(昭和4)年3月15日で同年6月1日から営業開始となっている。よって、この絵はがきの発行は早くとも1929(昭和4)年夏以降と思われる。
 一方、ケーブル会社の所在地について「神戸市熊内通一丁目」と記載しているが、これは社史によれば「神戸市葺合区熊内通一丁目19番地」であり、それが1931(昭和6)2月に「灘区箕岡通4丁目745番地」に移転している。以上のことから、この絵はがきは1929(昭和4)年夏から30(昭和5)年頃の発行と考えられる。ちなみに社史には、この絵はがきとほぼ同じ構図で1926(大正15)年発のものも掲載紹介されているが、乗合自動車は高尾—上筒井のみとなっている。

絵はがき2 裏面
 なおこのはがきの裏面には、切手を貼る部分ではない中央部に切手が張ってあり、また半紙が付いていて、そこに切手の位置に手書きで丸が記され、「日付印」と手書きされている。このことから、このはがきは購入者が実際に発送するわけではなく、主に記念用に使用するものだったとも思われる。最後にマヤカン(摩耶山温泉ホテル)について、この絵はがきが発行された同時期の1929(昭和4)年11月に開業しているが、絵はがきにはそれは記載されていない。おそらくは前述した1926(大正15)年発行のはがきの構図を流用しているためと思われる。

絵はがき3 裏面(半紙をかぶせた状態)

なお上記絵はがきは「摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料」で紹介していたが、ここで改めて紹介する。

# by nk8513 | 2015-04-03 12:35
2015年 03月 20日

摩耶観光ホテルについて39(資料36)

資料紹介36 絵はがき「攝津摩耶山ケーブルカー急勾配ノ景」など3枚、1925〜29(大正14〜昭和4)年頃?

 1925(大正14)年1月、摩耶山にケーブルカーが開通し、マヤカンこと摩耶山温泉ホテルが開業する1929(昭和4)年11月までの期間に作成・販売されたと推測される絵はがき。形態は1枚のはがきに2つの名所を紹介するというもの。作成者は3枚セットで入手したものの、おそらくはこの他に数枚程度加わって一つの絵はがき集となっていたとも考えられる。作成・発行者は特に記載はなく不明である。作成年を上記のように限定したのは、マヤカンが登場していない点、およびその後マヤカンが建てられる以前に、同じ場所に存在した「テント村」が登場することから判断した。ただし未確認の絵はがきにマヤカンが登場するものが存在しているかもしれないし、あるいはマヤカン開業後も「テント村」は周辺で設置されていたので、場合によっては、時期が1935(昭和10)年頃まで下る可能性も否定はできない。

絵はがき1 攝津摩耶山ケーブルカー急勾配ノ景・攝津摩耶テント村ノ景

 ここにある「テント村」は、ケーブルが開通した1925(大正14)年から、毎年7月上旬から8月末まで摩耶山遊園地周辺に設置されていたもので、別のリーフレットには「夏季テント村」とも表記されている。その場所は、マヤカンが営業開始した以後も設置されていることから、何ヶ所かに分散配置されていたと考えられる。ただしここに見られるのは、地形と近隣の山容からケーブル摩耶駅の東側斜面、すなわち現在のマヤカンが存在している場所である。

絵はがき2 攝津摩耶山ケーブルカーより神戸市を望む・攝津摩耶山摩耶食堂の内部

 ここで注目されるのが、左の「摩耶食堂の内部」である。細長いフロアにほぼ2列にテーブルクロス掛けられた四角形のテーブルに「サクラビール」(「帝国麦酒」製、後に大日本麦酒(第二次大戦後にアサヒビールとサッポロビールに分割)と合併)と表記されたイスが配されている。中央右手には厨房に続くようなカウンターも確認される。これと似たような構図は、マヤカン内にあった食堂の写真()でも見られるが、フロアの広さはまったく異なっているのでそれではない。ケーブル会社の社史(『六甲山とともに五十年』)の年譜には、1925(大正14)年5月31日に「摩耶駅付近に摩耶食堂開業 他に貸売店8戸開業」と表記されている。また以前紹介した絵はがきには、判然とはしないものの、それらしき施設が確認できる。よってここにみられるのは、表記の通り「摩耶食堂」ということになろう。天上や壁面から木造と判断されるが、なかなか洒落た雰囲気に感じられる。

絵はがき3 攝津摩耶山忉利天上寺本堂・攝津摩耶山忉利天上寺門前

絵はがき裏面

なお上記絵はがきは「摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料」で紹介していたが、ここで改めて紹介する。

# by nk8513 | 2015-03-20 13:49
2015年 03月 18日

摩耶観光ホテルについて38(資料35)

資料紹介35 リーフレット「日本ユースホステル協会指定 奥摩耶ハウス」、神戸市交通局、1955年?

奥摩耶ハウス1

 かつて奥摩耶(摩耶山頂)地区に存在したユースホステル「奥摩耶ハウス」のリーフレット。発行年は特に記載されていないが、掲載されている地図に1954(昭和29)年7月に開業したホテル奥摩耶山荘、1955(昭和30)年7月に営業開始した「奥摩耶ロープウェー(現・まやビューライン夢散歩)」や同時期に整備された奥摩耶遊園地の諸施設が確認できる一方、1956(昭和31)年7月に完成したとされる「マウントコースター」は記載されていない。よって発行年は1955(昭和30)年頃とも想定されるが、実際にはもっと遅い60年(昭和35)頃の可能性もある。

奥摩耶ハウス2

 リーフレット左中程にある説明の通り、奥摩耶ハウスはロープウェーとほぼ同じ時期に同じ神戸市交通局によって建設・開業されたようであり、したがって開業年も同じ1955(昭和30)年と思われる。なおユースホステルについては、数多くの文献やサイトで記されている。それらによれば、ユースホステルは「青少年少女の旅に安全かつ安価な宿泊場所を提供しようという主旨で始まった運動と、それにより生まれた、宿泊施設の世界的なシステム」(Wikipedia:ユースホステル,2015年3月18日閲覧)であり、1912(明治45)年にドイツで誕生したものが、第二次大戦前にはヨーロッパからアメリカ、大戦後には全世界に拡大している。日本には大戦後にアメリカの関係者の来日や、日本青年館関係者の訪米視察などによって、1951(昭和26)年10月に日本ユースホステル協会が設立され、当初は東京・日光・富士・伊豆等13ヶ所に委託契約という形で設置された。その後、54年(昭和29)年8月に協会が国際連盟(1932(昭和7)年設立)に加盟、55(昭和30)年には北海道の支笏湖に協会直営のユースホステルの第1号が誕生し、以後各地に施設がつくられ現在に至っている。このことから、奥摩耶ハウスは日本でのユースホステル導入期につくられた施設の一つであったということになる。

参考サイト:
Wikipedia ユースホステル
日本ユースホステル協会「ユースホステルってなに?」
色即ぜねれいしょん「ユースホステルの歴史を学ぶ」
釧路湿原とうろユースホステルです「ユースホステルの歴史&資料館」
日本ユースホステル運動史

奥摩耶ハウス3(掲載された地図)

 前回紹介した資料や今回のリーフレット等から、1955(昭和30)年頃に開業したと思われる奥摩耶ハウスであるが、その後の状況は不詳である。ユースホステルが会った場所は、以前指摘したように、現在テレビ局等の電波中継施設が立ち並ぶエリアである。1950年代後半~70年代(昭和30~50年代)の住宅地図によれば、56・58・59(昭和31・33・34)年は「奥摩耶ハウス 林間学校」と記載されていたが、64(昭和39)年には「ユースホステル 奥摩耶ハウス」とされ、71・74・76(昭和46・49・51)年には「市立摩耶高校 市立御影工高 奥摩耶ハウス」となり、78(昭和53)年以降は、記載がなくなっている。これらのことから、当初はユースホステルではなく林間学校という価値付けであり(あるいはユースホステル=林間学校という意味か?)、60年代に明確にユースホステルになったものの、70年代には地元高校の林間学校的な施設に変わり、その直後に解体撤去されたものとも推測される。前回紹介した奥摩耶山荘は営業期間が15年ほど(1954(昭和29)年~70(昭和45)年頃)、マヤカンは戦前戦中が16年(1929(昭和4)~45(昭和20)年)、戦後が6年(61~67(昭和36~42)年)、今回の奥摩耶ハウスは最長で15年、最短では10年である。一方、奥摩耶山荘が解体された後に新築された国民宿舎 摩耶ロッジの建物は、営業期間は25年(1970~95(昭和45~平成7)年)、6年の休業後にリニュアルされ現在のオテルド摩耶となってからすでに14年(2001~(平成13~)年)、合算すれば39年、建物自体も築45年となっている(ただし公営の国民宿舎という意味では奥摩耶山荘から50年以上継続)。マヤカンは周知の通り複雑な事情の結果であるが、奥摩耶山荘や奥摩耶ハウスは明らかに営業期間や建物の存在期間が短いと評価できる。おそらくは建築構造がどちらも木造で耐久性に問題があったのだろうが、一方でその作りが粗雑であった可能性も想定される。

# by nk8513 | 2015-03-18 15:02