2015年 02月 06日

摩耶観光ホテルについて36(資料33)

資料紹介33 「軍艦ホテル」(朝日新聞神戸支局編『兵庫の素顔』海文堂、1977(昭和52)年7月、174-175ページ)

軍艦ホテル1

 マヤカンを摩耶学生センターと称されていた時期に紹介した記事。これは元々、1977(昭和52)年1月から6月に朝日新聞の第二兵庫版および第二阪神版に連載された「兵庫の素顔」シリーズ内の1記事(掲載日未確認)であったものを、同年7月に朝日新聞神戸支局がまとめた同名の書籍に掲載されたものである。


軍艦ホテル2

 この記事の重要な点は2つあり、1つは摩耶観光ホテルが閉鎖され、廃虚になりかかりながらも、学生向けの宿泊施設として利用されていた時期を記録していることにある。ケーブル会社や行政、あるいは郷土史家等による文献に、マヤカンは比較的多く記載されているが、そのほとんどは戦前の摩耶山温泉ホテルか戦後の摩耶観光ホテル時代のことに専ら注目し、この記事に記載されている廃虚あるいは摩耶学生センターの状況についてはほとんど触れられていない。特に、摩耶観光ホテルとして再デビューしたが、「四十ニ年(1967年)夏の台風被害から立ち直れず三たび閉鎖」した点、さらにその後、管理人(実名記載されているが、ここでは空白に修正)が住み込み、やがて「学生のゼミ、サークル合宿などに限って施設の一部を開放した」などは、廃虚ブームに関連した関連書籍に引用されるまで他に記されなかった事柄である。


軍艦ホテル3

軍艦ホテル4

 次に重要なのは、前の引用にみられるように、この記事がその後に記載・出版される郷土誌・社史やそれらに基づく廃虚関連書籍などのマヤカンに対する主要な参考文献となっていることにある。摩耶学生センター時代以降の状況については、宿泊利用者の証言以外ではこの記事が唯一のデータソースとなっており、やや飛躍すればマヤカンの歴史を証明する資料となっているのである。逆にこの記事がなければ、私がかつて結核などの療養所であったなどという噂話を聞いたように、マヤカンの来歴についておそらく様々な話が混在・構築されていたとも想像される。ただし、記事内にある「アールヌーボー風の洋風ホテル」という記載は、郷土誌や初期の廃虚関連書籍(『懐古文化綜合誌 萬』愚童學舎、1999など)にそのまま引用されているが、実際はマヤカンが建てられた時期および形態からアール・デコ様式と思われる(近年の文献資料には記載・多)。このような負の影響力(他にも「昭和七年春に建てた」とあるが、実際は1929(昭和4)年11月竣工)も存在するが、それでもマヤカンの歴史にとっては、古い絵はがきやリーフレット以上の資料的価値を有するものと評価される。


軍艦ホテル5

 書籍版にはここにあげた空撮されたと思われるマヤカンの写真が掲載されている(オリジナルの新聞記事に掲載されたかは未確認)。白黒写真とはいえ、よく見ると外壁などが傷んでいるような状況がうかがえるものの、1929(昭和4)年に竣工したベース部分に、摩耶観光ホテル時代に増設され部分(主に5階)が明確に存在し、現在残されている状態と明らかに形態的に異なっている。吉川晃司が主演した映画「ユーガッタ☆チャンス」(1985(昭和60)年2月公開)の時には、増設部分の大半が撤去され、ほぼ現存する状態になっていることから、1970年代末から80年代前半にかけて、それなりの規模の改修工事が行われたと推測される。これは『懐古文化綜合誌 萬』などが記す「グリルから出た火が元で営業を停止。八十年代中頃に閉鎖」という話と関連したものかもしれない(実際は摩耶学生センターは1993(平成5)年頃まで営業継続している)。
 また近年、ネット上でB-29のものではないかとの噂が一部で指摘されていた航空機の車輪であるが、屋上中央部分に固定されている様子が確認できる。この部分は戦前の摩耶山温泉ホテルの時期には使用を確認できる資料は存在しないが、摩耶観光ホテルの時には、「屋上ビアガーデン」あるいは「スカイビアガーデン」と呼ばれ、車輪の回りにベンチ・テーブルが並べられていた(中央奥に建っている小屋はその時に使用されたものと推定、1990年代前半まで存在)。なぜ車輪なのか、オブジェとしてもよくわからないが、それは明らかに上空からホテルに落ちてきたものではない。ただし、戦時中にホテル周辺に落ちてきたものを保管していたという仮説もたてられないわけではないが、それも常識的とは思えない。

# by nk8513 | 2015-02-06 00:51
2015年 02月 05日

摩耶観光ホテルについて35(資料32)

資料紹介32 絵はがき集「国立公園 まや山 NATIONAL PARK Mt.Maya」、摩耶鋼索鉄道株式会社、1950年代後半(昭和30年代前半)?

 摩耶ケーブル会社が、摩耶山の再活性化した1950年代後半に販売したと思われる絵はがき集。以前紹介したもの()と同時期のものと思われる。このいずれも白黒写真に彩色したものであったが、今回の絵はがきも同様である。表紙には特に記載はなされていないが、はがき裏面に「摩耶鋼索鉄道株式会社」と記載されており、同社の発行であることが確認できる。また「京都 日本写真印刷印行」ともあって、これはそこで印刷されたことを示していると思われる。ケーブル会社によるものということで、ロープウェイ開通と同時に遊園地として整備された山頂地区は、奥摩耶山荘からの夜景のみであり、代わってケーブル摩耶駅周辺の展望台などが紹介されている。これは明らかに、以前紹介した2つとは異なる特徴といえよう。ただし、当時営業停止していたと考えられるマヤカンについては、摩耶山全景で確認されるのみである。

 
まや山全景におけるマヤカン



表紙

絵はがき1 最急勾配をゆくケーブルカー Cable-car going up the steep grade.

絵はがき2 ケーブル沿線の新緑 Vendure alomg the cable-car railway.

絵はがき3 ケーブル山上展望台 View-place at the cable-car terminal.

絵はがき4 ケーブル山上遊園地の桜花 Cherry-blossoms in the park at the cable-car terminal.

絵はがき5 まや山天上寺の多宝塔  Pagota of Tenjoji-temple, Mt.Maya.

絵はがき6 奥まやロープウェー Aerial railway of the interior Mt.Maya.

絵はがき7 奥まや山荘よりの夜景 Night scenery from Hotel Okumaya Sanso.

絵はがき8 まや山全景 The whole landscape of Mt.Maya.

 以前紹介した絵はがき集にも同様のものがあったが、これは前のものより西側から摩耶山を見上げた構図となっている。中央に途中トンネルで分断されているもののケーブルカーの路線、尾根筋の左上に山頂部の施設、ケーブル路線のすぐ左に中腹部の施設などが確認できるが、何よりもケーブル右側に一際目立つのがマヤカンである。彩色しているせいか、煙突が円錐形になっていたりして不鮮明ではあるが、形態的には以前の絵はがきと同様に増築前の姿である。よってこの絵はがきは、マヤカンが増築され再デビューする1961(昭和36)年以前の状況を示していると思われる。

表紙カバー裏面に記された略地図

 以前紹介したもの()とは異なり、まや駅の西側に「ケーブル遊園地」が記載されている。当然これは、絵はがき集の発行者がケーブル会社であることによる影響と思われるが、営業停止していたと考えられるマヤカンは記載されていない。

絵はがき裏面

なお上記絵はがきは「摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料」で紹介していたが、ここで改めて紹介する。

# by nk8513 | 2015-02-05 10:24
2015年 02月 04日

摩耶観光ホテルについて34(資料31)

資料紹介31 絵はがき集「国立公園 奥摩耶 Okuyama National Park」、1956(昭和31)年頃

 第二次大戦後の1955(昭和30)年に摩耶ケーブルが復活、合わせてロープウェイも開通し、摩耶山を含めた六甲山地域が瀬戸内国立公園に指定編入された56(昭和31)年頃に発行されたと思われる絵はがき集。構成は実質7枚からなるが、後に紹介する夜景のものは2枚分(分割可能)を使用しているので、8枚組ともとらえられる。タイトルの通り奥摩耶、つまり摩耶山頂部を中心にした内容であり、戦前から整備されたケーブル摩耶駅周辺(摩耶山中腹部)は、天上寺のみが登場するだけで、マヤカン等は確認できない。これは当時、奥摩耶の観光施設の整備が進んだ一方で、元の中心であった中腹部は、ケーブルとロープウェイの単なる乗り換え地点になっていたためと推測される(「摩耶観光ホテルについて12(資料9)」も参照)。発行は特に記載がなく不明なままだが、表紙裏の地図の下に丸に「大」の紋が描かれ、横に「神戸店納」と記載されている。このことから、この絵はがき集は、神戸元町の大丸神戸店で販売されていたものと考えられる。なお絵はがきは、一見カラーなのかと感じられるが、実際には白黒写真に彩色したものである。

表紙

絵はがき1 国立公園奥摩耶 摩耶ケーブル Cablecar to Maya.

絵はがき2 国立公園奥摩耶 奥摩耶ロープウェー Ropeway to Oku-Maya.

絵はがき3 国立公園奥摩耶 遊園地と展望台 虹の懸橋 Oku-Maya Recreation Ground.

 ロープウェイ開通と同時に整備された山頂地区の光景。中央やや上に七色に彩色されたカバーのある場所が、「虹のかけはし」と呼ばれた展望台である。

絵はがき4 国立公園奥摩耶 マウントコースター Mount Coaster.

 当時の奥摩耶には、虹のかけはしとともに様々な遊戯施設も存在していたが、現在でもその魅力が語り継がれるものが、ここに登場する「マウントコースター」である。これは参考サイトによれば、1956(昭和31)年7月25日に「完成」(オープンか?)し、このはがきの通り、「山上を周回したあと大きく山を飛びだし眼下の市街地へ飛び出した」(ナダタマ-ナダ用語辞典)、小規模ながらスリルある乗り物として人気を博したという。1970年代に摩耶山観光の不振から撤去されたが、その痕跡が80年代に整備された自然観察園内に今も残されている。
参考サイト
ナダタマ-ナダ用語辞典:灘の用語-1:あ行;奥摩耶遊園地
情報誌「なだだな」4号(1999.4)
神戸文書館 神戸歴史年表

絵はがき5 国立公園奥摩耶 千万弗の夜景 Nightview of KobeCity.

 現在、掬星台からの夜景は「日本三大夜景」に数えられ、その美しさで全国的にも有名であるが、この絵はがきにある通り、千万ドル、一千万ドルの夜景などとも表現されている。三大夜景や美しい夜景に対して、しばしば「百万ドルの夜景」と表されているが、この理由については諸説が存在して判然とはしない。ただし摩耶山の夜景については、六甲山からの夜景が百万ドルと表されていたことに対して、同地のそれはより美しいとのことで千万ドルになったといわれている。
参考文献:『六甲山とともに五十年』六甲摩耶鉄道株式会社、1982、56頁

絵はがき6 国立公園奥摩耶 ホテル奥摩耶山荘「かまぶろ」 “Kamaburo” bath-room of the Hotel Okumaya.

 奥摩耶山荘は、1954(昭和29)年7月から1970(昭和45)年頃まで奥摩耶で営業していたホテルである。当時ホテルの名物として、食事は摩耶鍋(これはマヤカンでも出していた)、そしてここにある釜風呂が知られていた。なお奥摩耶山荘は、70年に解体され、跡地に国民宿舎摩耶ロッジがつくられた。その建物は現在「オテル・ド・摩耶」というホテルにリニュアルされている。

絵はがき7 国立公園奥摩耶 摩耶天上寺 The Maya Tenjoji Temple.

表紙裏に記載された地図

 前述の通り、これによってこの絵はがき集が大丸神戸店で販売されていたと推測できる。

絵はがき裏面

なお上記絵はがきは「摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料」で紹介していたが、ここで改めて紹介する。

# by nk8513 | 2015-02-04 13:30


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