摩耶観光ホテルについて

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2015年 01月 08日

摩耶観光ホテルについて33(資料30)

資料紹介30 絵はがき集「摩耶山参拝記念絵葉書」、天上寺?

 タイトルが示唆するように、天上寺を中心にした絵はがき集。前回紹介した「摩耶山参拝記念絵葉書」と同一タイトル、表紙および絵はがき裏面の装丁等が類似・同一(桐/葵紋)であることから、天上寺が発行した可能性が高いと思われる。今回紹介するのは3枚であるが、実写ではなくイラスト・絵図となっている。ただし、天上寺の有名な石段参道の光景を描いたイラスト絵はがきをネット上で確認しており、元々この絵はがき集は少なくとも4枚構成か、あるいはそれ以上であったと考えられる。発行年は例によって不詳であるが、マヤカンと思しき建物が描かれていることから1930(昭和5)年から35(昭和10)年頃と推測される。

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絵はがき1 佛母摩耶山
 これは当時の摩耶山の中核たるケーブル摩耶駅付近および天上寺の伽藍を中心に描かれている。外界の神戸市街地と摩耶山の方向が実際より若干ズレている(実際には南向きだが、これは東南向き)が、摩耶駅の右下にマヤカン(摩耶山温泉)らしき建物が確認される。また以前の資料で紹介したように、桜の名所であったこともあって桜のようなピンク色に着色された樹木が多く描かれている。一方、天上寺については、山門あたりからの石段からいくつかの堂宇が確認できる。ただし上部にある三重塔は、実際には多宝塔である(以前紹介した資料も同じ)。これらは単なる誇張と考えられるが、一方で江戸期には三重塔が存在していたようであり(藤木喜一郎「昔の旅行者が見た摩耶山」神戸史談215、1959)、多宝塔は本来の姿ではないという意識が影響したとも推測される。

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絵はがき2 摩耶山奥の院
 こちらでは天上寺の「奥の院」、すなわち摩耶山頂(奥摩耶)付近の状況を描いている。「ハ洲嶺」は現在、テレビラジオ中継所が建っている場所(1955~70(昭和30~45)年頃にユースホステル奥摩耶ハウスが存在)、「天狗岩」「熊笹」が698.6mの三角点が存在する摩耶山頂(最高地点は702m)で、この辺りは現在でも熊笹が生い茂る中に天狗岩大神など、いくつかの小祠が点在している。一方「掬星台」は、現在のロープウェイ星の駅(旧・摩耶山上駅)から展望台のあるあたり、第二次大戦中に高射砲陣地として整地され、1955~80(昭和30~55)年頃には奥摩耶遊園地が存在した場所、「元摩耶」は天上寺が最初に創建されたとされる場所(摩耶別山717m)で、1976(昭和51)年の天上寺火災後に新たな堂宇がここに再建・移転されて現在に至っている。なおハ洲嶺は1863(文久3)年正月、当時の幕臣 小笠原長行が海防巡見の際に命名(有名なので出典省略)、掬星台は長州出身の官僚 服部一三が兵庫県知事在任中(1900(明治33)年10/25-1916(大正5)年4/28)に命名したものという(「摩耶山案内 1929」)。また「赤松円心墓」は、正確には元弘の乱(1331-33年)時に摩耶山に籠城した赤松則村(円心)およびその子息 則祐の供養塔2基であったが、戦時中に「心ない悪戯で谷底に落とされ、碑だけが残された」といい、現存しない(『むかしの神戸』神戸新聞出版センター、1997)。

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絵はがき3 摩耶山古圖
 古図と題されているが詳細は不明。絵はがき集の特徴からして、天上寺所蔵のものとも推測される。六甲山方面(北東方向)から摩耶山・天上寺および東南地域、大阪湾、西南には須磨・淡路島、はるか南に泉州・和歌山方面(天守閣のうような建物は大坂か岸和田、塔があるのは四天王寺か堺あたりか?)を誇張して俯瞰している。さらにこれも詳細不詳ながら、江戸中期の公卿・歌人であった日野資枝(1737-1801)の和歌が挿入されている。

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表紙

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絵はがき裏面

by nk8513 | 2015-01-08 00:00 | Comments(0)


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