2007年 05月 31日
資料紹介10 『秋 観艦式拝艦之最好適地 大阪から阪神電車連絡往復割引1円 市バス共』まやケーブル(摩耶鋼索鉄道株式会社)、1936年秋 秋 観艦式拝艦之最好適地1 ケーブル会社により作成されたリーフレット。タイトルの通り、秋季用のものである。イラストには摩耶山温泉ホテルがススキの後ろに描かれ、その左端にケーブル摩耶駅とホテルへの渡り廊下が、背後の山に天上寺の建物が、それぞれ描かれている。また空は青、山は青から黒で彩色されており、全体的に暗い印象を受けるが、これは中の案内に「秋はまや山の観月」に記されるように、夜をイメージしたものと推測される。 秋 観艦式拝艦之最好適地2 このリーフレットは、以前紹介した2つより紙面が少なくコンパクトなものではるが、この時期に行われた2つのイベントを中心に紹介している。 一つはタイトルにも示されている通り観艦式についてであり、本文中にも「壮烈無比特別大観艦式」「阪神沖特別大観艦式全艦隊只一望絶好の拝観場所」と写真入りで紹介されている。この観艦式は、以前に行われたものと思われる写真(1930(昭和5)年か34(昭和9)年)が掲載されている点や、後述する「みなとの祭」の記述等から、1936(昭和11)年10月29日に行われた「特別大観艦式」と考えられる。よってこのリーフレットは、『爽涼 夏ノ摩耶山 まやケーブル』(摩耶観光ホテルについて9参照)と同じ年の発行ということになろう。 次に記されているのが、「みなとの祭 龍宮の出現」と題されたものである。この「みなとの祭」は、現在行われている神戸まつりの前身というべきイベントで、戦前は1933(昭和8)年秋から数年間行われていたようである。以下にあげたサイト等によると、同祭りでは「神事祭典、祭りの女王戴冠式、国際大行進、そして、花火大会に海上提灯行列」や「第一神港商業学校〜大開通り〜元町通り、トア・ロード〜大倉山のコースで展開された懐古行列」などが行われ、また「山も街も電飾されて不夜城となり(中略)人気の花電車・花バスが作られ、特に、客を乗せない花電車7両には、特別豪華な飾りがなされた」という。確かにリーフレットにも、「市内高層建築物、突堤、背山のイルミネーション、停泊巨船の満船飾。、突堤先端の花火海上に映じ優美壮麗恰も龍宮城の出現、驚嘆すべき壮大美観、光の港都脚下一望、見落す勿れ祭の夜景」と記され、さらに関連として摩耶山の眺めの良さが宣伝されている。 参考サイト 神戸「みなとの祭」:http://m-yousan.hp.infoseek.co.jp/room2-12.html(2010年9月時点で閉鎖) 絵葉書・神戸「みなとの祭」 秋 観艦式拝艦之最好適地3 なお摩耶山温泉ホテルについては、以前紹介したガイドブックと同様の記述がなされており、特筆すべきものは見あたらないが、表紙のイラストにはホテルとともに、以前紹介した絵はがき(「摩耶温泉土産」:摩耶観光ホテルについて7参照)で確認できたカバーを施した渡り廊下も記されている。このホテルを東側から眺めた構図は、写真・イラストとも比較的数多くみられるが、ホテル開業当初のもの(摩耶観光ホテルについて4参照)では、渡り廊下を確認できない。これは廊下の完成が、1929(昭和 4)11月16日のホテル開業よりやや遅い1930(昭和 5)4月であったためで、それ以後に作成されたものとの際だった違いとなっている。 参考サイト 旅と建築と日常(摩耶観光ホテル):http://thoughts.exblog.jp/d2006-05-26 ちなみにこの渡り廊下は、現在残されているケーブル駅からの連絡路とほぼ同じルートをたどっているが、絵はがき・イラストを改めて確認すると、一部に高床状になった部分が存在している。これは山の崖のような斜面という地形からすれば、極めて不安定なものであり、かつ風雨の影響も少なくなかったであろう。またその造りも木造であったと推測されることから、この廊下は比較的短期間のうちに傷んでいったとも考えられる。戦後のマヤカンの写真にそれが確認できないのには、こうした背景があったと思われる。 ※補足(2009.10.09):ケーブル会社本社の表記が1936(昭和11)年2月以前の「箕岡通四丁目七四五」ではあるが、上記のことにより発行年は同年秋頃と考えられる。所在地が古い点については、所在地表記を変更した直後で混乱をさけるためか、あるいは以前に発行したリーフレットの原版をそのまま使用したためと推測される(摩耶観光ホテルについて18(資料15)、2009年10月参考)。
by nk8513
| 2007-05-31 16:57
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Comments(5)
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O-noli at 2007-06-01 11:18
お久しぶりです。
渡り廊下の記述、興味深く読ませていただきました。 即物的につくられたうねる外観が魅力的です。内部もきっとおもしろい空間だったのものと想像します。
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nk8513 at 2007-06-02 20:44
コメントありがとうございます。確かによく見るとおかしな形だと思います。窓も結構大きいですし、実際に通ったら少し怖いかもしれませんね。何でこの形態だったのかと思いますが、もしかしたら最初からマヤカンとセットで設計されていたものなのかもしれませんね。
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kmchika
at 2007-06-21 05:38
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すばらしい資料ですね!ご本人様、もしくは近しい方が関連企業でお勤めをされていたのかと想像しました。もしくは、摩耶山のリピータでしょうか?とにかく、このような資料は個人の方からしか手に入れることのできないものと思います。(私も神戸市の図書館に何度か出向きましたけど、阪神電鉄の記念社歴誌しか探すことができませんでしたから)
公の場で共有をしていただけ、本当に感謝しています。ありがとうございます。これからも、こんな貴重な資料がどれだけあるのかと期待しています。
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nk8513 at 2007-06-22 14:30
コメントありがとうございます。私は関連企業の関係者でも、リピーター(登山家?)でもありませんが、マヤカンが学生センターだった頃に宿泊したことがあります(1990年頃)。あの時でもほぼ「廃墟」という状態で、かなり驚いたのですが、何故こんな状態なのか非常に気になっていました。その後95年頃になって、地元の郷土誌等で、およその歴史を確認いたしまして、マヤカンに一緒に泊まった友人たちに紹介しました。その時に調べた年表は、99年頃から以下のサイトに載せていただいております。
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~kitada/doc/mayakan1.htm (続きは以下のコメントです)
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nk8513 at 2007-06-22 14:33
ところが、2000年頃からのいわゆる「廃墟ブーム」によって、マヤカンがそれまで以上に有名になったことで、さらに興味を感じまして、「社史」や観光パンフレット、新聞記事などを確認することにより、マヤカンのより細かい変遷の歴史、および以前調べた内容の誤り(マヤカンの建築年など)等を知るにいたりました。当ブログはそのまとめとして作成したものです。またそれに付随して関連資料もいくつか集めていたのですが、これらもあわせて紹介するようにいたしました。
私はマヤカンを美的価値のある「廃墟」という観点も認めつつも、基本的には他の近代建築物と同じく、歴史的遺産(文化財)の一つと考えております。ですので、芸術的な「廃墟」マヤカンの写真の公開は他の方々にお任せして、私はその歴史や資料を公開することに努めております。ただ、なかなか資料収集は進んでおりませんので、更新も年に数回しかできまでんが、時折見に来ていただければ幸いです。 |
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