摩耶観光ホテルについて

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2008年 04月 09日

摩耶観光ホテルについて15(資料12)

資料紹介12 絵はがき「(摩耶名勝)摩耶ホテル(Mayasan)Maya Hoteru」など(5枚)、赤西萬有堂、1935年頃?

 以前も紹介した赤西萬有堂(裏面に「KOBE AKANISHHI」と記載)が発行したとみられる絵はがき5枚。私はこれらを一括で入手したが、これがセットの絵はがき集かどうかは不明。またセットとしても、枚数5枚というのはやや半端であり、6枚あるいは8枚程度のものであった可能性もある。発行年代は不明だが、ホテル周辺の植物の状況等から、その完成年(1929(昭和4)年11月)から数年以上経過した時期以降と考えられる。なお以下の通り、絵はがきは白黒写真に彩色を施していたものであるが、これによって画像が不鮮明になっている部分も散見される。なおすべてのはがきに「摩耶参拝記念」印がおされている。

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絵はがき1 (摩耶名勝)摩耶ホテル(Mayasan)Maya Hoteru

 この南から見上げる構図は、戦前の絵はがき等によく確認されるものである。現在は完全に山林化しているが、当時はマヤカン下部に遊歩道が整備されていた。これは後述する遊園地等へ通じていたと思われる。

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絵はがき2 (摩耶名勝)頂上摩耶駅(Mayasan)Chiyojyo Mayaeki

 これは、以前紹介した絵はがきに彩色したものである。ただし注視すると、ここには駅舎、ホームの屋根とともに、マヤカンへの覆い付きの渡り廊下らしきものを確認することができる。したがって、この元になった絵はがきおよび、資料7に示した絵葉書集の発行年代は、前に推定した1929(昭和4)年11月以前ではなく、廊下が完成した1930(昭和5)年4月以降と判断される。
 参考:摩耶観光ホテルについて10(資料7)、2006年9月(絵はがき集「摩耶山ケーブルカー CABLECAR ON MOUNT MAYA」、赤西萬有堂)

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絵はがき3 (摩耶名勝)子供遊園地(Mayasan)Yuenti

 今回紹介したもので判然としないのが、ここに登場する「子供遊園地」である。以前から紹介したように、ケーブル摩耶駅周辺には摩耶山温泉(マヤカン)をはじめとして、様々な行楽施設が存在していた。これまで提示してきた資料では、基本的にはマヤカンが駅の東側下、その他は駅西側にあることを示したものであった。ただし前述の通り、マヤカン下部(駅からは南側一帯)には遊歩道が整備されており、その先には「摩耶観光ホテルについて7(資料4)、2005年11月」で紹介したローラースケート場(ベビーゴルフ場)が存在していた。これらは第二次大戦前の摩耶山関係資料(主に絵はがき)から確認されている。しかしこの「子供遊園地」は、一部の資料に登場するのみで、その整備およびその他の施設との位置関係はよくわからない。絵はがきの画像に注目すると、周囲の地形・植生および遊具、また1段下にも遊具等の施設があることが確認できるが、これらの状態は以前紹介した駅西側のそれとは明らかに異なっている。
 六甲摩耶鉄道株式会社の社史(『六甲山とともに五十年』、1982)にある年表によれば、以下の関連する記述がある。
1926(大正15)年2月  「ケーブル遊園地200坪開拓 遊戯具設置、桜、楓、桃、梅等数百本を植樹」
    同年    6月  「ケーブル遊園地に動物小屋新設」
1931(昭和 6) 年5月 「野田山遊園地内にベビーゴルフ場設置」
1933(昭和 8) 年7月 「野田山遊園地内(摩耶山温泉全面)に植樹、猿舎、運動具の新設、道路の増設完成」
 これらから判断するに、ここに登場する「子供遊園地」等は「野田山遊園地」の施設と考えられ、絵はがき正面に見えるドーム場の施設は「猿舎」(「キングコング」を入れていた?)、「猿舎」の左・一段下にある施設が「運動具」、そしてこうした施設整備のための「道路の増設」と推定される。そしてこの施設群の位置は、道路増設ということからして、やはりマヤカン下部であったと思われる。私はこれまでこの「野田山遊園地」と記された施設は、「ケーブル遊園地」の別称と判断していたが、それはあるいは、駅西側のケーブル遊園地とは異なるエリアの名称であったのかもしれない。ただしその正確な場所は、現時点では不明であり、可能性としては「ローラースケート場」付近(駅からは南南東方向)と、マヤカン直下部(駅からは南東方向)の2つがあげられる。いずれの場所も急傾斜地であり、絵はがきに確認される土留めの設備はそれを裏付けている。またこれに関しては、前にも参照した以下のサイトの絵はがきからも、いくつかの遊歩道等が確認でき参考となる(マヤカン直下部はこの絵はがきから推定した)。なお以前に紹介したように、第二次大戦後、ケーブル駅西側は再び「遊園地」として再整備され、またやや遅れてマヤカンも建て増しされて短期的にせよ復活した。しかしこの「子供遊園地」等は、当時の資料からまったく確認できない。おそらくは、戦中から敗戦後のケーブル休止後は、使用されることもなくなり、次第に「廃墟」化していったと思われる。
参考サイト:「旅と建築と日常」:http://thoughts.exblog.jp/d2006-05-26

補足(2008.12.11):この施設のあったマヤカンの南〜南東側の小字地名が「野田山」であることを、1950〜60年代の住宅地図などから確認した。よってここが「野田山遊園地」であったと考えて間違いないと思われる。
補足2(2010.9.08):マヤカン下部周辺地区を写した絵はがきにより、この場所が野田山遊園地の中心であることが確認された(摩耶観光ホテルについて21(資料18):2010年 09月を参照)。

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絵はがき4 (摩耶名勝)岐坂なる階段(Mayasan)Kaiban

 これは現在も残されているが、旧天上寺境内の石壇である。当時は、ケーブル摩耶駅から徒歩で天上寺に参拝する形態が一般的であった。この石壇を登り切ると、本堂や多宝塔等がある寺の中心に至った。

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絵はがき5 (摩耶名勝)頂上の塔(Mayasan)Cuojyo Noto

 この多宝塔の左後に本堂が存在していた。以前紹介した通り、1976年の火災により、これらの建物はほぼ焼失した。現在、天上寺は摩耶山頂部(奥摩耶)北側の摩耶別山(伝承によれば天上寺発祥の地)に移転し、旧境内は史跡公園になった。

by nk8513 | 2008-04-09 12:02 | Comments(17)
Commented by fujiko-kei at 2008-08-15 11:52
はじめまして。
いつも拝見させていただいております。

神戸中央図書館所蔵の神戸新聞のマイクロフィルムにて、当時の記事を探してみました。
資料が見つかりましたが、nk8513さんのメール先等が分かりませんでしたので、ここに書かせていただきます。
Commented by fujiko-kei at 2008-08-15 11:52
地元紙の神戸新聞ですが、マヤカンが開業したとされる昭和4年11月16日付には開業を伝える記事が全くなく、翌十七日付に
「けふから開業した」
「マヤホテルはこの程竣工十七日から開業した」
との記事が写真付きで掲載されていました。
このことから開業日は昭和4年11月17日が正しいと思われます。

また、敷地に関しましては、新聞記事では「六百五十坪」ではなく「百五十坪」となっていました(このあたりは新聞社側が誤植しているのかもしれませんが…)。150坪は495平方メートルとなりますので、若干狭いような気もします。

マヤカンが営業再開された、昭和36年8月のマイクロフィルムの確認もしてみましたが、こちらには特に記事等ありませんでした。

新聞記事はこちらにアップしていますのでお使いいただいて結構です。
ttp://i-get.jp/upload/upload.cgi?mode=dl&file=3498
パス:mayakan
Commented by nk8513 at 2008-08-15 23:54
コメントありがとうございます。
ご指摘の点は、すべてその通りだと思います。
マヤカンの開業については、以前から一部資料に1932昭和7年と記載されていたため、私も4年前に今回ご紹介された記事を見まして、1929昭和4年と確認しました。ただしより正確な日付については、私自身はあまり関心がなく、以前書いた論文(以下のアドレスからダウンロード可)では、同記事を引用した一方、当ブログで度々紹介している社史『六甲山とともに』に記載された11月6日完成、16日から営業開始との記載も紹介いたしました(70ページ)。よってブログでは一応16日としたのですが、社史を厳密に確認すると、16日は「仮営業」とありますので、実際にはこの記事のように17日だった可能性もあると思います。また以下にあげた社史の記述の仕方から、6日完成も16日の誤植の可能性が大きいように感じられます。今回のご指摘で、この辺りをいい加減していたことを痛感いたしました。

「廃墟」の歴史地理 : 摩耶観光ホテルを事例に:http://ci.nii.ac.jp/naid/110004500468/
Commented by nk8513 at 2008-08-15 23:55
参考として社史の記述も以下に紹介します。
「昭和4年11月6日(おそらく16日の誤植か?)ほぼ完成、仮営業開始、鉄筋コンクリート4階建、延床面積約750坪、1〜2階は和洋室ホテル、3階は食堂、温泉場および娯楽室、4階は400名収容の余興場などがあった」(摩耶山温泉の今昔『六甲山とともに』127ページ)
「昭和4年(1929)(中略)11.16 公会堂兼余興場。浴場、旅館、娯楽場等設備略完成仮使用認可仮営業開始」(年譜『六甲山とともに』190ページ)
Commented by nk8513 at 2008-08-15 23:55
次に650坪の件ですが、これはまったくの記載ミスだと思います。これは上記の社史にある「延床面積約750坪」を参考にしたはずなのですが、おそらく引用した際になぜか650坪と打ってしまったのだと思います。申し訳ありません。ただし、この度のご指摘から、いくつかの文献を確認した所、建築学の学会発表要旨(以下のアドレスからダウンロード可)に、1929昭和4年12月3日の「大阪朝日新聞」兵庫付録に掲載された「まや山温泉新聚落成記念」広告記事に基づいて、「この建築は地上2階地下2階の4層からなり(おそらく客室を地下と規定?)、機能面で各階ごとに異なっており、1階は浴場と和洋食堂・娯楽場、2階は劇場、地下1階は洋式ホテル、地下2階は和式ホテル、という構成である。各階の建築面積は、1階は295坪、2階は155坪、地下1階は165坪、地下2階は85坪と、各階ごとに異なる。このことは傾斜地に建つことを原因とする」と記載していることを確認いたしました。これを合計するすると、ちょうど700坪になりまして、社史の750坪と一致いたしません。
Commented by nk8513 at 2008-08-15 23:56
どちらが正しいのかわかりませんが、4階(要旨では2階)部分を余興場(劇場)のみとするか。あるいは当時は屋外となっていた部分をも含めるかで、50坪の差が出ているのではないかとも考えられます。一方、ご紹介いただいた記事の150坪といのうは、各階の面積いずれも一致していません。どこからきた数字なのでしょうか。

摩耶ホテルと設計者今北乙吉について:http://ci.nii.ac.jp/naid/110006596963/

いずれにしろ、今回ご指摘の部分は、どちらも修正・補足する必要がありますので、近いうち(2008年8月中)に、判然としない部分を含めてブログを修正・補足する予定です。一応、他の資料も確認してからとしますので、少々のお時間をご容赦下さい。この度はありがとうございました。
Commented by fujiko-kei at 2008-08-20 19:20
ご丁寧な回答、ありがとうございます。

オープン前日に「仮営業」なんて日もあったのですか…。
nk8513さん所有の資料の多さには圧倒されます。
Commented by Murakami at 2008-11-04 00:08 x
はじめまして。
いつも拝見させていただいております。

摩耶観光ホテルについて調べていまして、このサイトにたどり着きました。
資料が豊富でとても参考にさせていただいています。

突然ですが、摩耶観光ホテルの図面を探しています。どこかで見たことはないでしょうか?
いきなりで失礼ですがもし心当たりがありましたら教えていただけないでしょうか。
Commented by nk8513 at 2008-11-05 18:04
コメントありがとうございます。
 さて図面の件ですが、残念ながら私が収集いたしました資料に、図面の類はありませんでんした。当ブログに書いたホテル内部の記述は、各資料の記述を参考としたものです。
 ただし戦後の状況については、かつて存在したホームページ(摩耶観光ホテルの謎にせまる)に、提示されていた内部の見取り図(摩耶観光ホテル全館見取図)を撮した写真を若干参考にしております。これはおそらくマヤカンの4階か3階の階段付近に掲示されていたもので、おそらく90年代末に同所を訪れた方が撮影されたものと思われます。残念ながら写真の解像度が悪く、細かい記載まで読み取れないのですが、例えば「1階(実際は1・2階) ホテル客室」「2階(実際は3階) ロビー。カジアルコーナー外」「3階(実際は4階) 大ホール。グリル外」「4階 大宴会場・中宴会場?...」等がなんとか判読できます。
Commented by nk8513 at 2008-11-05 18:05
 このホームページを開いていた方とは、かつて何回かメールでやり取りしていたのですが、その際使用していたPCが壊れてしまい、現在はアドレスもわかりません。またこれは実際に掲示されたものですが、マヤカンを紹介した数多くのサイトの写真等から、その存在は確認できません。おそらくは、かつて雑誌『萬』などに掲げられていた装飾品と同様、後から侵入した人に持ち去られてしまったものと推測されます。
 以上、長々と書いてきましたが、結局はお役にたてないということでして、申し訳ありません。ただそれでもこの図を御覧になりたいということでしたら、著作権等の問題もありますが、非公開コメントで連絡いただければ善処いたします。また、以前紹介したマヤカンに関する建築学における報告(ダウンロード可)に、私の見ていない資料がいつくか記載されており、それらにあるいは図面等があるかもしれません。ご参考までにお知らせします。
摩耶ホテルと設計者今北乙吉について:http://ci.nii.ac.jp/naid/110006596963/
Commented by Murakami at 2008-11-06 02:34 x
丁寧な回答ありがとうございます。
図面がないのは残念ですが、参考になりました。
ありがとうございます。
Commented at 2008-11-06 02:45 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2008-11-06 15:36 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2008-11-15 14:59 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by at 2009-05-05 14:10 x
昭和35年から38年まで毎年夏になると摩耶山に行きました。
なんといってもジェツトコースターが楽しみで短い距離でしたが
海側で急坂を降りるのが恐くもあり楽しみでした。
いまではコースターの跡形もないのでしょうか?
Commented by nk8513 at 2009-05-05 18:37
コメントありがとうございます。
ジェツトコースターとはおそらく「マウント・コースター」のことだと思います。おっしゃる通り、かなりスリリングだったようですね。関連サイト等にもそうした記述が目立ちます。写真など詳細につきましては、以下の関連サイトに若干の絵はがきを紹介しておりますので、ご覧いただければと思います。
摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料:http://nk8513.blogspot.com/

なおコースターは、1970年代に撤去されましたが、その遺構はわずかながら残存しております。以下の新聞記事を参照
神戸新聞2006年8月11日
http://www.kobe-np.co.jp/rensai/200607kusa/12.html
Commented by at 2009-05-06 00:27 x
早速ありがとうございます。神戸には昭和46年まで住んでいましたが、最初は岩屋に住んでいたので摩耶山がよく見えたことを思い出します。
摩耶山には池(蓮があった記憶があります)もあり、海側の展望台での
写真がアルバムに貼ってありました。生前、父親は摩耶山が好きで
よく連れて行ってくれました。懐かしい思いで胸がいっぱいです。


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