2005年 06月 03日

摩耶観光ホテルについて3(歴史3)

5.摩耶学生センター
1970(昭和45)年頃
 ホテル業者(所有者)の依頼により閉鎖された摩耶観光ホテル(マヤカン)に管理人に住み込む

1974(昭和49)年
 学生のゼミ、サークル合宿などに限りホテル施設の一部を開放
  →一説にはすでに1972(昭和47)に営業開始とも...
 摩耶学生センターとしての営業開始
 主に近隣大学の学生サークル等の合宿先として利用
 摩耶観光ホテル時代に揃えられたと思われるベッドや調度品等をそのまま使用
  →廃墟的な状況(荒れた雰囲気)を売りにした施設

1975(昭和50)年10/1 
 摩耶ケーブル,六甲ケーブルと合併(六甲摩耶鉄道株式会社)
  →1965(昭和40)年頃より旅客人員減少(ホテル閉鎖および
   モータリゼーションの影響)による経営不振が影響...

1976(昭和51)年1/30夜
 天上寺堂塔の大半を焼失 →ケーブルを利用した参詣の消滅

同年 6月
 摩耶山天上寺復興推進委員会発足 
 神戸市と土地交換をして,新しい堂塔を山頂地区の摩耶別山(天上寺創建地)に
 建設させる方針決定
  →中腹地区の摩耶ケーブル遊園地およびその周辺の店舗
   1970年代後半から80年代前半にかけて次々に閉鎖(中腹地区の衰微・廃墟化)
 また同時期に山頂地区も施設の老朽化および利用者の落ち込み等から、
 奥摩耶遊園地内の遊戯施設や飲食店等が次々に閉鎖・撤去
  →一帯は摩耶自然観察園として再整備

1980年代前半
 摩耶学生センター、グリル部分(4階)が火災に遭う(?)
  →一説にこれが原因で営業を停止したという
 しかしこれは一時的閉鎖か?
  →この後も、映画のロケ地に使用されたり、学生センターとしての営業が
   90年代前半まで確認
     ↓
 増築されていたグリル(4階)および、その上部(5階)の宴会場の部分が、
 この事件により撤去(?)
  →80年代後半以降の写真等から増設部分確認されず
   形態的には戦前の状態に近似...

1983(昭和58)年
 新天上寺、中院落慶法会(摩耶別山)

1985(昭和60)年5/10〜12
 新天上寺、金堂落慶入仏開眼大法会

同年
 映画「ユー☆ガッタ☆チャンス」(監督:大森一樹 主演:吉川晃司)のロケ地に使用

1989(平成元)年
 ドラマ「過ぎし日のセレナーデ」(フジテレビ系 主演:田村正和)のロケ地に使用

1993(平成 5)年頃
 管理者の体調不良により摩耶学生センターの営業停止(第三の廃墟化)→廃墟・マヤカンへ

 ※この後、建物は神戸市に無償譲渡され、暫定的に摩耶ケーブルが管理者となったと
  現在閉鎖されたサイト(「摩耶観光ホテルの謎に迫る」)に情報が寄せられていた
  が、実際には所有者自体に変更はないらしい。最近でも、地元の灘区(行政)やま
  ちづくりサークル等が所有者の許可を得て、合法的な見学会を実施している。

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マヤカン遠望(2002年5月 友人撮影)

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マヤカン(2002年5月 友人撮影)

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マヤカン4階正面(2002年5月 友人撮影)

6.廃墟・マヤカン
1995(平成 7)年1/17
 阪神大震災 ケーブルカー、ロープウェーの施設破損、営業休止
  →赤字経営も影響...
 マヤカンも2本あった煙突の1本が折れて落下...
   →以後、5年間にわたりケーブル運休
 この頃のマヤカンは摩耶山中を歩く一部のハイカーらに主に認知される程度...

1998(平成10)年頃
 廃墟ブームの兆候
   →小林伸一郎『廃墟遊戯 Deathtopia』メディアファクトリー 出版

1999(平成11)年11月
 マヤカンが初めて廃墟関連書籍に登場
 (田端ヒロアキ『懐古文化総合誌「萬」臨時増刊号 廃墟の魔力』愚童学舎)
   ↓
 「萬」の売れ行き好調...マヤカンの存在が広く認知されるようになる
 インターネットによる情報も影響
  →一部のマニア、自力で登山してマヤカンに侵入

2000(平成12)年3月
 摩耶ケーブルの施設、六甲摩耶鉄道株式会社より神戸市に無償譲渡
 この頃より,神戸市により摩耶山復興に向けた活動活発化

同年 6月
 ケーブル・ロープウェーの復旧工事開始

2001(平成13)年3/17 
 摩耶ケーブル・奥摩耶ロープウェー、神戸市が一括運営する
 「まやビューライン夢散歩」として運転再開

同年 頃〜最近
 神戸市(および所有者?)、ケーブル再開と同時に、マヤカンに立入を禁止する柵を設置、
 旧摩耶ケーブル遊園地に残されていた茶店などの廃墟を撤去
 兵庫県教育委員会を中心に、文化財的存在としてマヤカンの修復・保存への検討を
 開始(資金的にメドたたず...)
 一方、ケーブル再開後、マニア多数がマヤカンに度々侵入
  →それを傍証するネット上のサイト多数発生
   ただしアクセスが悪いこともあり、遊び半分でやって来て時に破壊等を行う者は
   他の廃墟に比べ少数(?)
   ネットのサイトからは、廃墟としての保存状態の良さを評価する記述が確認
   一方、地元の灘区(行政)やまちづくりサークル等が所有者の許可を得て、
   合法的な見学会を実施

※補足(2009.3.27):正確な時期は不明ながら、ここ1、2年の間にスプレーによる落書き等が施され、一部にそれを問題視あるいは嘆くサイト・書き込みが複数確認されている。

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かつての余興場(2002年5月 友人撮影)

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かつての大食堂(2002年5月 友人撮影)

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グリル部分 かつてこの上部に宴会場が増築されていた(2002年5月 友人撮影)

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マヤカン側面(2002年5月 友人撮影)

 以上、マヤカンの歴史的経緯について記してきた。これらからわかる通り、マヤカンは建設から70年以上経過しているが、そのうちホテルとして機能したのは、戦前の15年間と戦後の6年ほどを合わせてわずか20年足らずに過ぎずなかった。それにはケーブル休止や気象災害などが直接的原因であったが、何より摩耶学生センターの管理人が「戦後の観光ブームの主役の自動車道からはずれたのが響いたんですよ」(朝日新聞神戸支局『兵庫の素顔』海文堂、1977)と語ったように、マヤカンへの自動車道路が存在しなかった点にも遠因があったと考えられる。しかし、そうした状況が、一方で1970年代から90年代の学生センターとしての役割あるいは、近年のマニアに注目される廃墟としての新たな役割を発生させたのである。その意味では、マヤカンの歴史は、廃墟になるためのプロセスだったのかもしれない。
 なお上記の年表は、金子直樹「廃墟の歴史地理-摩耶観光ホテルを事例に-」『人文論究』55-1(関西学院大学人文学会)、2005(http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0007280967)をもとに作成した。

by nk8513 | 2005-06-03 23:20 | Comments(0)


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