2005年 06月 06日
3.摩耶山頂地区(奥摩耶)の観光地化 1952(昭和27)年頃〜 神戸市、奥摩耶ドライブウェイおよび掬星台の整備開始 →摩耶山の再・観光地化 1955(昭和30)年5/7 摩耶ケーブル営業再開 同年 7/12 奥摩耶ロープウェー営業開始(摩耶—山上 全長826m 神戸市交通局) ↓ 掬星台周辺は奥摩耶遊園地となる 屋根付きの展望台(虹のかけ橋)、食堂、売店、休憩所、各種遊戯施設等 宿泊施設も整備(ホテル奥摩耶荘・ユースホステル・バンガロー村等) 「ウイーク・デーでも千五百人、休日には六千人もの人たちが押しかけ」たという 自動車・バスで行ける立地の良さ 一方、戦前の摩耶山遊園地も摩耶ケーブル遊園地として再整備 食堂や売店、展望台、バンガロー、遊戯施設が建設 しかし戦前の賑わいを取り戻せず... 原因:ケーブル摩耶駅周辺(中腹地区)は山頂地区への単なる中継点に すぎなくなった 山頂地区とは異なり自動車道では行けない立地の悪さ 摩耶観光ホテル時代の案内1(筆者蔵:月刊「神戸っ子」23号、1963年2月1日) 4.摩耶観光ホテル 1960(昭和35)年頃 摩耶ケーブル遊園地の不振:立地条件の悪さ ケーブル旅客人員の減少:ケーブルとロープウェイの輸送人数のアンバランス による問題(長時間の待時間) モータリゼーションの影響(直接山頂地区へ) ↓ 閉鎖中の摩耶山温泉ホテル再開への動き(中腹地区活性化の目的) 同年 9/1 摩耶ケーブルの親会社・阪神電鉄の意向によりホテルを関西のホテル業者に売却 「破格値」(安価?)で売却 →ホテルの状態:かなり損傷?(廃墟化のため) ホテル業者、数千万円をかけホテルを改装 名称を摩耶観光ホテルに変更 4階建を5階建に増築 内装:フランスの豪華客船イル・ド・フランスの操舵輪・ステンドグラス・ 木製のベット等の家具・装飾品を使用 →軍艦ホテルというイメージを利用した、より船舶らしいアレンジ 1961(昭和36)年8/26 摩耶観光ホテル営業開始 1・2階:ホテル客室 3階:ロビー・カジアルコーナ等 4階:大ホール・グリル等 5階:大宴会場・中宴会場 →グリルは元の屋外の展望台を転用 宴会場がグリルの上部に建て増し 当時の案内:「三宮から二〇分、スモツグと喧騒から遮断されたユートピヤー」 「神戸港を眼下に俯瞰し、背は峨々たる大自然を感じる仙境」 「眺望絶佳 名物 炭酸温泉露天大岩風呂・三百畳敷の大広間」 「パーティ・お食事・ご宿泊に山のレジャー・ホテル」 名物:「楠公鍋」や「摩耶鍋」等の鍋料理(800〜2000円) 季節ごとのイベント:ビアガーデン、お月見パ−ティー、クリスマスパーティー等 ビアガーデン:屋上部分を利用 「スカイビヤガーデン」「空中ビアーガーデン」 毎夜5時〜11時まで 土日には「有名バンドやダンシングチームの出演」 →戦前の健康ランド的な摩耶山温泉ホテルと異なる宴会・パーティーを 中心とした飲食主体の施設... *ケーブル旅客人員 1960(昭和35):42万人 1961(昭和36):52万人 1962(昭和37):54万人 →ホテル開業の効果... ↓ 戦前同様の繁盛ぶり(短期間...▲) 1967(昭和42)年7/9 台風から変わった温帯低気圧による集中豪雨のため、 摩耶ケーブル付近で土砂崩れ発生 この時にホテルも塩害等の被害を受けてホテル営業停止(第二の廃墟化) →ただし一説には1971(昭和46)年とも... 正確な年代特定はできず およそ1960年代後半から70年代初頭にかけて閉鎖? 摩耶観光ホテル時代の案内2(筆者蔵) 摩耶観光ホテル時代の案内3(筆者蔵) #
by nk8513
| 2005-06-06 21:30
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2005年 06月 03日
5.摩耶学生センター 1970(昭和45)年頃 ホテル業者(所有者)の依頼により閉鎖された摩耶観光ホテル(マヤカン)に管理人に住み込む 1974(昭和49)年 学生のゼミ、サークル合宿などに限りホテル施設の一部を開放 →一説にはすでに1972(昭和47)に営業開始とも... 摩耶学生センターとしての営業開始 主に近隣大学の学生サークル等の合宿先として利用 摩耶観光ホテル時代に揃えられたと思われるベッドや調度品等をそのまま使用 →廃墟的な状況(荒れた雰囲気)を売りにした施設 1975(昭和50)年10/1 摩耶ケーブル,六甲ケーブルと合併(六甲摩耶鉄道株式会社) →1965(昭和40)年頃より旅客人員減少(ホテル閉鎖および モータリゼーションの影響)による経営不振が影響... 1976(昭和51)年1/30夜 天上寺堂塔の大半を焼失 →ケーブルを利用した参詣の消滅 同年 6月 摩耶山天上寺復興推進委員会発足 神戸市と土地交換をして,新しい堂塔を山頂地区の摩耶別山(天上寺創建地)に 建設させる方針決定 →中腹地区の摩耶ケーブル遊園地およびその周辺の店舗 1970年代後半から80年代前半にかけて次々に閉鎖(中腹地区の衰微・廃墟化) また同時期に山頂地区も施設の老朽化および利用者の落ち込み等から、 奥摩耶遊園地内の遊戯施設や飲食店等が次々に閉鎖・撤去 →一帯は摩耶自然観察園として再整備 1980年代前半 摩耶学生センター、グリル部分(4階)が火災に遭う(?) →一説にこれが原因で営業を停止したという しかしこれは一時的閉鎖か? →この後も、映画のロケ地に使用されたり、学生センターとしての営業が 90年代前半まで確認 ↓ 増築されていたグリル(4階)および、その上部(5階)の宴会場の部分が、 この事件により撤去(?) →80年代後半以降の写真等から増設部分確認されず 形態的には戦前の状態に近似... 1983(昭和58)年 新天上寺、中院落慶法会(摩耶別山) 1985(昭和60)年5/10〜12 新天上寺、金堂落慶入仏開眼大法会 同年 映画「ユー☆ガッタ☆チャンス」(監督:大森一樹 主演:吉川晃司)のロケ地に使用 1989(平成元)年 ドラマ「過ぎし日のセレナーデ」(フジテレビ系 主演:田村正和)のロケ地に使用 1993(平成 5)年頃 管理者の体調不良により摩耶学生センターの営業停止(第三の廃墟化)→廃墟・マヤカンへ ※この後、建物は神戸市に無償譲渡され、暫定的に摩耶ケーブルが管理者となったと 現在閉鎖されたサイト(「摩耶観光ホテルの謎に迫る」)に情報が寄せられていた が、実際には所有者自体に変更はないらしい。最近でも、地元の灘区(行政)やま ちづくりサークル等が所有者の許可を得て、合法的な見学会を実施している。 マヤカン遠望(2002年5月 友人撮影) マヤカン(2002年5月 友人撮影) マヤカン4階正面(2002年5月 友人撮影) 6.廃墟・マヤカン 1995(平成 7)年1/17 阪神大震災 ケーブルカー、ロープウェーの施設破損、営業休止 →赤字経営も影響... マヤカンも2本あった煙突の1本が折れて落下... →以後、5年間にわたりケーブル運休 この頃のマヤカンは摩耶山中を歩く一部のハイカーらに主に認知される程度... 1998(平成10)年頃 廃墟ブームの兆候 →小林伸一郎『廃墟遊戯 Deathtopia』メディアファクトリー 出版 1999(平成11)年11月 マヤカンが初めて廃墟関連書籍に登場 (田端ヒロアキ『懐古文化総合誌「萬」臨時増刊号 廃墟の魔力』愚童学舎) ↓ 「萬」の売れ行き好調...マヤカンの存在が広く認知されるようになる インターネットによる情報も影響 →一部のマニア、自力で登山してマヤカンに侵入 2000(平成12)年3月 摩耶ケーブルの施設、六甲摩耶鉄道株式会社より神戸市に無償譲渡 この頃より,神戸市により摩耶山復興に向けた活動活発化 同年 6月 ケーブル・ロープウェーの復旧工事開始 2001(平成13)年3/17 摩耶ケーブル・奥摩耶ロープウェー、神戸市が一括運営する 「まやビューライン夢散歩」として運転再開 同年 頃〜最近 神戸市(および所有者?)、ケーブル再開と同時に、マヤカンに立入を禁止する柵を設置、 旧摩耶ケーブル遊園地に残されていた茶店などの廃墟を撤去 兵庫県教育委員会を中心に、文化財的存在としてマヤカンの修復・保存への検討を 開始(資金的にメドたたず...) 一方、ケーブル再開後、マニア多数がマヤカンに度々侵入 →それを傍証するネット上のサイト多数発生 ただしアクセスが悪いこともあり、遊び半分でやって来て時に破壊等を行う者は 他の廃墟に比べ少数(?) ネットのサイトからは、廃墟としての保存状態の良さを評価する記述が確認 一方、地元の灘区(行政)やまちづくりサークル等が所有者の許可を得て、 合法的な見学会を実施 ※補足(2009.3.27):正確な時期は不明ながら、ここ1、2年の間にスプレーによる落書き等が施され、一部にそれを問題視あるいは嘆くサイト・書き込みが複数確認されている。 かつての余興場(2002年5月 友人撮影) かつての大食堂(2002年5月 友人撮影) グリル部分 かつてこの上部に宴会場が増築されていた(2002年5月 友人撮影) マヤカン側面(2002年5月 友人撮影) 以上、マヤカンの歴史的経緯について記してきた。これらからわかる通り、マヤカンは建設から70年以上経過しているが、そのうちホテルとして機能したのは、戦前の15年間と戦後の6年ほどを合わせてわずか20年足らずに過ぎずなかった。それにはケーブル休止や気象災害などが直接的原因であったが、何より摩耶学生センターの管理人が「戦後の観光ブームの主役の自動車道からはずれたのが響いたんですよ」(朝日新聞神戸支局『兵庫の素顔』海文堂、1977)と語ったように、マヤカンへの自動車道路が存在しなかった点にも遠因があったと考えられる。しかし、そうした状況が、一方で1970年代から90年代の学生センターとしての役割あるいは、近年のマニアに注目される廃墟としての新たな役割を発生させたのである。その意味では、マヤカンの歴史は、廃墟になるためのプロセスだったのかもしれない。 なお上記の年表は、金子直樹「廃墟の歴史地理-摩耶観光ホテルを事例に-」『人文論究』55-1(関西学院大学人文学会)、2005(http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0007280967)をもとに作成した。 #
by nk8513
| 2005-06-03 23:20
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