摩耶観光ホテルについて

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2019年 03月 28日

摩耶観光ホテルについて52(資料49)

資料紹介49 「開設当時の摩耶山温泉」(阪神電気鉄道株式会社臨時社史編纂室編『輸送奉仕の50年』阪神電気鉄道株式会社、1955(昭和30)年)

 阪神電鉄の社史に掲載されたマヤカン。社史は第二次大戦後で、かつマヤカンが摩耶観光ホテルとして再デビューする1961(昭和36)年より前の1955(昭和30)年の出版。したがって当時、マヤカンは閉鎖されていたが、写真はタイトルの「開設当時」通り、マヤカンが摩耶山温泉ホテルとして開業した直後に撮影されたものである。以前から参照しているケーブル会社の社史(『六甲山とともに五十年』、1982(昭和57)年)にも、同一の写真が「開設当時(昭和4年11月)」というタイトルで掲載されており、マヤカンの開業時期(1929(昭和4)年11月16日仮営業開始)と一致している。ただし手前に見える「ベビーゴルフ場」の存在から、撮影時期は1931(昭和6)年5月以降とも考えられる(後述)。


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開設当時の摩耶山温泉

 この写真は、フリー百科事典 ウィキペディアの「摩耶観光ホテル」の項でも紹介されているが、マヤカンの古い写真として他の文献にも紹介されている。2本ある煙突の1本から煙が上がっていることから、営業中の状態と思われる。ホテル手前は整地され、芝生のようなものが植えられているように見えるが、ホテルに平行した道路も確認できる。以前から紹介している通り、ホテル下部には「野田山遊園地」が存在しており、道路は遊園地に向かう、あるいは遊園地内の遊歩道と考えられる。 マヤカン以上に注目されるのが、手前にある城郭の天守閣のミニチュアが置かれた施設である。ケーブル会社社史の年譜によれば、1931(昭和6)年の5月に「野田山遊園地内にベビーゴルフ場設置」とある。明確ではないが、6や8と表記されたポールのようなものがあることから、やはりゴルフ場的な施設と思われる。よって、この写真は、この時期以後に撮影されたとも考えられる。このゴルフ場は、以前紹介した絵はがきや神戸市垂水区にある「絵葉書資料館」所蔵の絵はがき:Maya Park 摩耶遊園地周辺 ベビーゴルフ 神戸港観艦式遠望でも確認される。
 ただし、以前存在した「六甲ヒルトップギャラリー」のホームページ上で公開されていた絵はがきでは、同じ場所で子供達が足漕ぎの自動車を漕ぐ光景が撮られている。これと同じ絵はがきが絵葉書資料館に所蔵(Maya Hotel 足漕ぎ自動車 摩耶観光ホテル 昭和11年頃)されているが、このタイトルが「足漕ぎ自動車 摩耶観光ホテル 昭和11年頃」とされている。マヤカンを第二次大戦後の名称である摩耶観光ホテルを使用していることから、このタイトルは絵葉書資料館が独自に付与したものと思われるが、昭和11年頃の根拠は確認できない(最初に紹介した絵葉書資料館の絵はがきのタイトル「摩耶遊園地周辺 ベビーゴルフ 神戸港観艦式遠望」にある観艦式(神戸沖では1930(昭和5)年10月・1933(昭和8)年8月・1936(昭和11)年10月に実施)を考慮?)。ケーブル会社の社史でも特に何も記載されていないが、1933(昭和8)年7月に「野田山遊園地内(摩耶山温泉前面)に植樹、猿舎、運動具の新設、道路の増設完成」とあり、あるいはこの時期に施設が変更されたとも推測される。

 以下は、マヤカンの写真とともに摩耶山関連で掲載されていたもの。また摩耶山に関しては、次のように記載されている。ケーブルの復活(1955(昭和30)年5月)直前の状況とわかる。

 社業の足あと(略史) 七 戦後経営の十カ年(46〜47ページ) 摩耶ケーブルの復活 戦時中鉄材供給で設備が撤去されていた摩耶ケーブルは、当社の傍系事業として十一年ぶりに復活することとなった。このケーブルは山上の古刹忉利天上寺への参詣人誘致をめざし、遠く大正十四年一月摩耶鋼索鉄道株式会社によって開業されたわが国ケーブル界の古顔である。ふもとの高尾駅から海抜四百五十二メートルの摩耶駅まで延長九百三十七メートル、勾配の急なことはその頃東洋一であり、世界でも四番目であった。昭和四年には摩耶駅付近に四階建の摩耶山温泉を開設してホテルや遊園施設をしたが、ケーブルは昭和十九年二月運転休止を命ぜられて晩秋から撤去に着手し、レールその他の資材を高尾駅構内に集積したが、活用もされぬまま終戦となった。たまたま神戸市営をもって山嶺の掬星台よりケーブル山上駅付近にいたる八百十七メートルにロープウェイを架設することとなり、本年六月頃開通を目標に進工中であるが、同社においてもこれに呼応してケーブルを復活することになり、すでに昨二十九年十月工事に着手した。ロープウェイよりも一足お先に四月下旬頃開通の見込みであるが、この両者が相前後して動き出したら、掬星台よりさらに山上バスを通じ六甲ケーブルと連絡するので、一時間余りで摩耶六甲周遊が可能になり、さらに山上ホテルその他の諸施設も神戸市と連携して完備することとなっているから、新しい観光施設として戦前とは面目を一新するだろう。

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山上より港都神戸の東部を望む

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摩耶ケーブル


# by nk8513 | 2019-03-28 16:05 | Comments(0)
2018年 08月 07日

摩耶観光ホテルについて51(資料48)

資料紹介48 絵はがき「MAYASAN HOTEL KOBE」摩耶鋼索鉄道株式会社、1929~30年頃?

 ケーブル会社による絵はがき。発行年は不明だが、マヤカンが摩耶山温泉ホテルとして竣工した直後の1929年(昭和4)の年末から翌30年(昭和5)頃かとも推測される。ネットの市場でもよく登場し、また一部の神戸・六甲関連の郷土史的な書籍等でも紹介されており、摩耶山・マヤカンに関心のある関係者には、比較的有名なものと思われる。ただしこの絵はがきは、現在確認できるケーブル会社の絵はがき集に含まれておらず、また天上寺やケーブルなど摩耶山関連でも、類似した油絵調の絵はがきは確認されない。加えて、今回の絵はがきと同じく書籍・ネットで確認されるものとして、マヤカンをイラスト風に描いた絵はがきも存在するが、これも他に類似したものは確認できない。よってこれらの絵はがきは、セットではなく、単独で販売されていた可能性が高いと判断される。
 これらと関連するものとして、例の社史『六甲山とともに五十年』でケーブル会社の絵はがきが4枚紹介されている。いずれも摩耶山全体にケーブルや天上寺等を配したイラスト風の共通したもので、これらも単品であったと思われる(類似したものを当ブログでも紹介済み)。ただここには、最寄り駅の上筒井駅(当時の阪急神戸線終点、現・王寺公園駅西側付近)からケーブル摩耶駅へのバス路線や会社の所在地、あるいは「賀正 大正丙寅元旦」などが記されているものもあり、販売用とともに会社の営業用(贈答・配布)としての性格もあったと考えられる。

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絵はがき「MAYASAN HOTEL KOBE」

 構図はタイトルの通り、マヤカンが右手に大きく描かれており、中央上部に天上寺にあった多宝塔と摩耶山頂部、左下に神戸の市街地と煙をあげる船舶が配されている。当時のマヤカンはケーブル会社の直営だったため、この現実離れした大きさで存在感を示そうとしたと思われるが、一方で、肝心のケーブルの線路・駅・車両は描かれていない。これが、マヤカンのみを強調することを最初から想定した結果か、あるいは当初はケーブルなども含める予定だったが、完成したのが今回の構図で、作者の意図等を尊重して、特に修正を加えなかっただけなのか、判然としない。ちなみに、特にサインもないので、作者が誰かも確認できない。

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絵はがき「MAYASAN HOTEL KOBE」(裏面)


# by nk8513 | 2018-08-07 11:35 | Comments(0)
2018年 07月 02日

摩耶観光ホテルについて50(資料47)

資料紹介47 絵はがき集「国立公園 摩耶山 NATIONAL PARK Maya」、奈良 岡村印刷工業、1950年代末~60年代初?
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表紙カバー表

 1950年代末から60年代初め頃に発行されたと思われる絵はがき集。発行元については、絵はがき裏の切手を貼る部分に「NARA OKAMURA PRINTING INDUSTRIES Co.」と記載されており、奈良県高取町にある岡村印刷工業だと思われる(後掲を参照)。マヤカンについては、ロープウェーの後景に確認されるが、摩耶観光ホテルとして再開された際に行われた増築部分は存在していない。よって、発行時期はともかく、絵はがきに使用された写真自体は、後述する状況も含めて1958年(昭和33)夏から60年(昭和35)夏頃にかけて撮影されたものと推定される。なお各絵はがきの状態から、これらは白黒写真に彩色をしたものと思われる。

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絵はがき1 国立公園 摩耶山 摩耶ケーブルカー National Park Mt.Maya The cable-car to Maya.

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絵はがき2 国立公園 摩耶山 摩耶山遊園地より神戸市と大阪湾を望む 
National Park Mt.Maya A view of Kobe City & Osaka Bay from the Maya (recreation) ground.

 ケーブル摩耶駅(現・虹の駅)西側にあった遊園地からみた眺め。海岸線は現在とは異なり、1960年代後半以降に埋め立てが行われる前の状態を確認できる。ただし、ここで注目されるのは、右の手前にある薄緑の構造物であろう。よく見ると、上部に人が乗れるような部分が2箇所あり、小型の観覧車のようなものであることがわかる。過去に何度も参照しているケーブル会社の社史『六甲山とともに五十年』(1982年(昭和57)発行)の「年譜」によれば、1958年(昭和33)7月15日に「まやケーブル遊園地に観覧車、チェンタワー等の遊戯具設備建設〈三洋遊戯機械㈱に委託経営〉」と記載されている。チェンタワーは、中心部の支柱部分が回転し、そこからチェーンでぶら下げられたブランコが回転する遊具機械であるので、ここに写っているのは、観覧車と思われる。この観覧車の存在から、今回の絵はがき集が、1958年夏以降に発行されたものと判断できる。なおチェンタワーはこの絵はがきからではわからないが、以前紹介した資料にそれらしきものを観覧車より東側で確認できる。
 絵はがきの表記にある「摩耶山遊園地」は、1925年(大正14)のケーブル開通以来、整備されたもので、食堂やテント村、小型の遊具や動物小屋、そして1929年(昭和4)には、マヤカンの原型をなす摩耶山温泉ホテルも、その中に建設された。第二次大戦によるケーブルの営業休止により、マヤカンも営業を中止したが、おそらく遊園地もそのまま放置され、しばらくは荒廃していたと思われる。それが、ケーブルの運転再開および奥摩耶ロープウェー開通の1955年(昭和30)以後に再整備され、食堂・休憩所・展望台・バンガロー村などが建設された。この状況は、戦前からの遊園地の再生という目的とともに、摩耶山頂部に整備された山上遊園地に対抗する意味合いもあったと考えられる。特に山上遊園地には、後述するマウントコースターやティーカップなどの大型遊具が設置されており、今回紹介した観覧車、チェンタワーの設置は、この3年後に摩耶観光ホテルとして再オープンしたマヤカンとともに、摩耶遊園地における中核となるべき遊具であったと推測される。ただし、これらは1970年以降の資料には確認されず、60年代末には撤去されたと思われる。マヤカン同様に短命であったのかもしれない。

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絵はがき3 国立公園 摩耶山 摩耶ロープウェー National Park Mt.Maya The rope-way to Maya.

 ロープウェー背後にマヤカンが確認できる。前述のように増築前の状態であり、撮影時期は摩耶観光ホテルとして再生する以前と判断できる。

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絵はがき4 国立公園 摩耶山 摩耶山上遊園地と展望台虹の懸橋 National Park Mt.Maya The Maya ground and observation atand.

 絵はがきの英語表記にある「atand」はstandの誤記と思われる(後掲の絵はがき裏面を参照)。

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絵はがき5 国立公園 摩耶山 摩耶山上遊園地 National Park Mt.Maya Recreation ground of the top of Maya.

 以前の絵はがき集等で登場したマウントコースターが確認できる。右側には、鉄骨で組んだコースのカーブ部分が、左側に「マウントコースター」と表記された乗降場と思しき建物等が確認される。山頂部の起伏をうまく利用した施設であったことが窺える。

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絵はがき6 国立公園 摩耶山 摩耶天上寺 National Park Mt.Maya A temple of Maya Tenjyo-tera.

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絵はがき7 国立公園 摩耶山 摩耶山よりの百万ドル夜景 National Park Mt.Maya A beautiful view from the top of Maya at night.

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絵はがき8 国立公園 摩耶山 奥摩耶放牧場 National Park Mt.Maya The pasture ground on Oku-maya.

 絵はがきのタイトルは「奥摩耶放牧場」となっているが、現在の六甲山牧場と思われる。

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表紙カバーの内側に記載された地図

 これとほぼ同一の地図が、以前紹介した絵はがき集にも記載されている(ただし、大丸神戸店で販売されていたと思われる表記があった)。その絵はがき集には発行元を示唆するものは確認できなかったが、この図から今回と同じ奈良の岡村印刷工業の発行とも考えられる。

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表紙カバー裏

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はがき裏面

 切手を貼る部分に菱形に岡村印刷工業と思われるアルファベット表記がある。また「2」と記載された菱形のマークは、同社の社章と思われる。


# by nk8513 | 2018-07-02 21:58 | Comments(4)
2018年 06月 03日

摩耶観光ホテルについて49(資料46)

資料紹介46 「神戸・異国情緒(Exoticism in KOBE)」雑誌『an・an』(平凡出版社、現・マガジンハウス社)7巻19号(通巻No.155)、1976年(昭和51)9月20日、148~167ページ

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神戸・異国情緒における摩耶観光ホテル・摩耶ケーブル

 雑誌『an・an』の記事「神戸・異国情緒」に登場したマヤカンと摩耶ケーブル。年代的には、摩耶学生センターとなっていたと思われるが、紹介文には摩耶観光ホテルと記されている。渡り廊下付近のみが断片的に切り取られた小さい写真であるが、多少傷んでいる様子が確認できる(ただし最近よりははるかに状態は良いと思われるが…)。

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神戸・異国情緒1「異人館」(148-149ページ)

 さてこの記事を紹介するにあたり、必要な基礎的情報を長くなるが以下に記す。
 雑誌『an・an』は1970年3月に創刊された。当時は既存の雑誌とは異なる斬新な内容(上野千鶴子ほか参考文献参照)で話題を集めたようであるが、その中で1971年頃から現在では考えられない特集記事が組まれた。それは、京都や京都に準じる風格を備えた小京都に位置づけられる地方都市、あるいは伝統的生活文化が残っている農山漁村を紹介する内容で、ガイドブック的に使用できるほど詳細なものも少なくなかった。こうした旅行案内的な特集記事が、1980年頃までほぼ毎号掲載されていた。さらに同種の記事は、やはり同時期に創刊された『non-no』(集英社、1971年(昭和46)~)でも毎号組まれることになった。
 これらの背景として、an・anやnon-noの読者と考えられる若い女性による旅行へのニーズ、および高度経済長期を経て、江戸時代的な伝統文化や建物、たたずまい等の希少性が高まったこと等があげられる。これらは、同時期に国鉄よって行われたディスカバー・ジャパン・キャンペーン(1970年(昭和45)10月~76年(昭和51)12月)のコンセプト(旅の向こうに美しい(昔ながらの)日本を発見する)や若い女性を主な想定客としている点などに典型的にあらわれている。an・anやnon-noの旅行特集記事は、ディスカバー・ジャパンとは直接関係していなかったが、通底する内容であったために、ディスカバー・ジャパンが注目される大きな助けとなった。それは、小京都に群れ集まる女性の旅行者を、両雑誌名をもじってアンノン族と呼ばれたことから確認される。
 さて上記のように、1970年代では小京都的な場所が新たな観光地として人気を博した。an・an・non-noの特集記事の大半もそうした場所が中心であったが、これとは異なる方向性の場所を取り上げた記事も存在した。それは、神戸や横浜、長崎、函館、あるいは自然や広大な農村景観に注目した北海道などで、いずれも非日本的、非伝統的イメージという点で共通していた。特に今回取り上げた神戸などは、近代初頭から欧米諸国に開かれた港町で、欧米流の文化・習慣や建築物がいち早く導入され、それらが残存する場所として、おそらくは現実以上にエキゾチックなイメージが強調されていた。この当時は、例えば1ドル=360円の固定相場が1971年(昭和46)8月まで実施されていたように、外貨と比較して円が安く、外国旅行が現在の水準よりはるかに高価なものであった。したがって、行きたくても行けないアメリカやヨーロッパの代替地として、この神戸のような、少しでも異国情緒を感じさせる国内の場所が注目されていたのである。
 ちなみに異人館が多く残る神戸の北野・山本通周辺を特に有名にしたNHKの朝のドラマ『風見鶏』は、1977年(昭和52)10月から78年(昭和53)4月まで放映されており、今回の特集記事の後である。神戸の異人館に対する『風見鶏』のインパクトは、大変有名であるが、この記事のように、それ以前からエキゾチックなイメージは高まっていたと思われる。
 なお今回の特集記事は、ガイドブックではなく、エキゾチックイメージを構成演出しつつ、若干の名所や飲食店の情報とともに、服やグッズなどを紹介するというカタログ的な記事ともなっている。この当時は、京都や小京都などをロケ地にして、こうしたカタログ記事を作成することも少なくなった。

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神戸・異国情緒2「北野付近」(150-151ページ)

 右側の異人館は、前の『風見鶏』に登場し、現在は重要文化財に指定されている「風見鶏の舘」(旧トーマス邸)である。当時は中華同文学校(中国系の学校)の寮となっていた。左側は、神戸電鉄の社長を努めた小林秀雄夫妻で、現在では「萌黄の館」(旧シャープ邸)と呼ばれる異人館に居住していた。

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神戸・異国情緒3「散歩道」(152-153ページ)

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神戸・異国情緒4「港」(155ページ)

 ポートターミナルのことが紹介されているが、ランドマークとなるポートタワーは文中で紹介されているものの、写真は掲載されていない。

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神戸・異国情緒5「塩屋」(156-57ページ)

 ここに登場する「シーサイドクラブ・パレス塩屋」は、現在閉店しているようである(久保田洋一のブログ 明石大橋から塩屋まで歩きました)。


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神戸・異国情緒6「六甲」(158-59ページ)

 六甲とはいいつつも、羊が点在する六甲山牧場と摩耶観光ホテル&ケーブルがメインである。ただし、摩耶ケーブルの上のモデルが乗っているのは、形状からして六甲ケーブルだと思われる。

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神戸・異国情緒6「六甲」の摩耶観光ホテル

 「摩耶ケーブルの終点にある摩耶観光ホテルは現在使われていない」と記している点は注目される。実際には、簡易宿泊所である摩耶学生センターの営業を開始していたと考えられるが、それは地元の大学生などに限定されたインフォーマルな形態だったとも推測される。写真からは、確かに荒れた雰囲気が感じられるが、「アンダルシアの古城にでもいるようだ」と評している。

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神戸・異国情緒7「ホテル」(161ページ)

 ここに登場する「雅叙園ホテル」は神戸高速鉄道 花隈駅北西にあった異人館を活用したホテルだった。阪神淡路大震災で被害を受けたようで、現在跡地にはマンションが建っている(晴れのち晴れ 神戸雅叙園ホテル)。

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神戸・異国情緒8「買物」(163ページ)

 ここに登場する「オクトーバー14」は、旧中国領事館であった建物を再利用して、1990年代半ばまでは営業していたようである。現在は「坂の上の異人館」として公開されている。

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神戸・異国情緒9「骨董」(165ページ)


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神戸・異国情緒10「神戸肉」(166-67ページ)

 ここに登場する「キングス・アームス」は、神戸の中心地・三宮を南北に通るフラワーロードの東側(東遊園地付近)にあった店舗であった。震災の影響で閉店したようである。(阿智胡地亭のShot日乗 神戸にあったパブ「キングス アームス」

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『an・an』7巻19号(通巻155)表紙

 エキゾチックなイメージを演出するとはいえ、ここに提示された神戸と実際の神戸とはかなりの乖離があるようにも感じられる。それには、ここに登場する人物が、外国人(欧米人)がメインとなっている点も影響している。彼らの一部は、神戸在住の者かもしれないが、大半はモデルではないかと思われる。少々演出が過ぎている点は否めない。

参考文献
赤木洋一『「アンアン」1970』平凡社、2007.1
上野千鶴子「女性誌ニュージャーナリズムの同世代史」(『「私」探しゲーム 欲望私民社会論 』筑摩書房)、1987(増補版1992.6・原典は『朝日ジャーナル』1984年11月23日号)
難波功士『族の系譜学 ユース・サブカルチャーズの戦後史』青弓社、2007.6
原田 ひとみ「アンアン"ノンノの旅情報 マスメディアによるイメ-ジ操作」地理(古今書院発行の月刊誌)29-12、1984.12、p.50-57
林 真希・十代田 朗・津々見 崇「ディスカバー・ジャパン・キャンペーンの方法及び対象に関する基礎的研究」日本観光研究学会全国大会学術論文集22、2007.12、p.237-240
藤岡和賀夫『ディスカバー・ジャパン』PHP研究所、1987.12(電通により1991.11再販)
森 彰英『「ディスカバー・ジャパン」の時代 新しい旅を創造した、史上最大のキャンペーン』交通新聞社、2007.2


# by nk8513 | 2018-06-03 11:50 | Comments(0)
2018年 05月 05日

摩耶観光ホテルについて48(資料45)

資料紹介45 「国立公園まや山 まやケーブル」摩耶鋼索鉄道株式会社、1958~60年(昭和33~35)頃


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国立公園まや山 表紙

 ケーブル会社による1950年後半(昭和30年代前半)のリーフレット。タイトルから摩耶山が六甲山とともに瀬戸内国立公園に編入された1955年(昭和30)以降に作成されたと推定される一方、1961年(昭和36)に再オープンした摩耶観光ホテルがまったく登場していてない。またここに記載された摩耶山の諸施設のうち、年代的に新しい「まやケーブル展望台」が1958年(昭和33)8月に建設されている。よってよってこれは、1958から60年頃に発行されたものと考えられる。表紙は、摩耶山あるいは六甲山と思われる山塊を左右に配し、その中央(谷間)に夜景?の市街地、その上部に海、さらにおそらくは淡路島がシンプル化されて描かれている。そこにケーブル、ロープウェー、天上寺を示すと思われる多宝塔や葵の紋(徳川氏から庇護されていた)の他、港町神戸を示す船のイラストが配されている。

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国立公園まや山1

 摩耶山・夜景・ケーブル展望台などが紹介されている。ここに添付されている写真のうち、下部は後で登場する奥摩耶山荘のものと思われる(同じ構図が以前紹介した絵はがき集に確認)。右側のケーブルの写真では、樹木が繁茂しており、第二次大戦前の禿げ山同然であった状況から時間の経過を感じさせる。背景のイラストには、ケーブルおよび1955年(昭和30)7月に開業した奥摩耶ロープウェーや天上寺が記載され、戦後の状況を示している。
 ここで特に注目されるのは、「千万弗の夜景」「千万弗の美観」と記されている夜景である。以前に紹介した通り、美しい夜景に対して、しばしば「百万ドルの夜景」と表されているが、この理由については諸説が存在して判然としない。ただし摩耶山の夜景については、ケーブル会社の社史に六甲山からの夜景が百万ドルと表されていたことに対して、同地のそれはより美しいとのことで千万ドルになったと記載されている。六甲山関連の資料を確認していないが、摩耶山については第2次大戦前のリーフレット等には、夜景を紹介する記載はない。よって、六甲山との比較等の真偽はともかく、摩耶山の夜景を千万ドルと形容されるようになったのは、このリーフレットが発行された1950年代後半(昭和30年代前半)以降と判断される。
 次に「まやケーブル展望台」(社史によれば1958年(昭和33)8月建設)の部分には、「無料休憩所・売店」(同1957年(昭和32)6月建設)・「バンガロー」(同1957年(昭和32)7月建設)の施設が記載されている。ただし同所に「旅舘」と記載されているものについては、社史からは確認できない。以前紹介した住宅地図では1956・58年版(昭和31・33)に「展望台」の南側に「摩耶旅館」が確認されるが、ここにある「旅舘」と同一かは不明である。

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国立公園まや山2

 こまかい点だが、左側の「高山大神」にある「アベック連の参詣が多い」の表現は、昭和的な時代を感じさせる。

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国立公園まや山3

 ロープウェーと同時期に整備された「奥まや遊園地」には「ムーンロケット・渦巻カー・マウントコースター等」が記載され、明らかに現在の自然公園と異なる状態であったことを確認される。なお右側の地図では「観光牧場」(現・六甲山牧場)から奥摩耶(山頂地区)への自動車道路(奥摩耶ドライブウェー)が記載されている。

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国立公園まや山4

 こうした形態のリーフレットは、これまで第二次大戦前限定と判断していたが、今回紹介したように、戦後になっても同様のものが発行されていたことを確認した。ただし、これが限定的に発行されたものか、あるいは複数のものが継続的に発行されたかは未確認である。同時に絵はがき集も発行されているが、社史によれば、戦後の摩耶ケーブルは運輸収入こそ増加していくが、旅客人員は徐々に減少し(1955年(昭和30)50万人→1965年(昭和40)42万人→1975年(昭和50)29万人)、1975年(昭和50)10月には六甲ケーブルと合併している。これは明らかに、ケーブル会社、もしくは摩耶山観光の低落による再編と思われる。ケーブル会社独自のリーフレットや絵はがきが戦前ほど確認できないこともこうした状況によるものとも推測される。


# by nk8513 | 2018-05-05 08:34 | Comments(0)