2015年 03月 18日

摩耶観光ホテルについて38(資料35)

資料紹介35 リーフレット「日本ユースホステル協会指定 奥摩耶ハウス」、神戸市交通局、1955年?

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奥摩耶ハウス1

 かつて奥摩耶(摩耶山頂)地区に存在したユースホステル「奥摩耶ハウス」のリーフレット。発行年は特に記載されていないが、掲載されている地図に1954(昭和29)年7月に開業したホテル奥摩耶山荘、1955(昭和30)年7月に営業開始した「奥摩耶ロープウェー(現・まやビューライン夢散歩)」や同時期に整備された奥摩耶遊園地の諸施設が確認できる一方、1956(昭和31)年7月に完成したとされる「マウントコースター」は記載されていない。よって発行年は1955(昭和30)年頃とも想定されるが、実際にはもっと遅い60年(昭和35)頃の可能性もある。

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奥摩耶ハウス2

 リーフレット左中程にある説明の通り、奥摩耶ハウスはロープウェーとほぼ同じ時期に同じ神戸市交通局によって建設・開業されたようであり、したがって開業年も同じ1955(昭和30)年と思われる。なおユースホステルについては、数多くの文献やサイトで記されている。それらによれば、ユースホステルは「青少年少女の旅に安全かつ安価な宿泊場所を提供しようという主旨で始まった運動と、それにより生まれた、宿泊施設の世界的なシステム」(Wikipedia:ユースホステル,2015年3月18日閲覧)であり、1912(明治45)年にドイツで誕生したものが、第二次大戦前にはヨーロッパからアメリカ、大戦後には全世界に拡大している。日本には大戦後にアメリカの関係者の来日や、日本青年館関係者の訪米視察などによって、1951(昭和26)年10月に日本ユースホステル協会が設立され、当初は東京・日光・富士・伊豆等13ヶ所に委託契約という形で設置された。その後、54年(昭和29)年8月に協会が国際連盟(1932(昭和7)年設立)に加盟、55(昭和30)年には北海道の支笏湖に協会直営のユースホステルの第1号が誕生し、以後各地に施設がつくられ現在に至っている。このことから、奥摩耶ハウスは日本でのユースホステル導入期につくられた施設の一つであったということになる。

参考サイト:
Wikipedia ユースホステル
日本ユースホステル協会「ユースホステルってなに?」
色即ぜねれいしょん「ユースホステルの歴史を学ぶ」
釧路湿原とうろユースホステルです「ユースホステルの歴史&資料館」
日本ユースホステル運動史

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奥摩耶ハウス3(掲載された地図)

 前回紹介した資料や今回のリーフレット等から、1955(昭和30)年頃に開業したと思われる奥摩耶ハウスであるが、その後の状況は不詳である。ユースホステルが会った場所は、以前指摘したように、現在テレビ局等の電波中継施設が立ち並ぶエリアである。1950年代後半~70年代(昭和30~50年代)の住宅地図によれば、56・58・59(昭和31・33・34)年は「奥摩耶ハウス 林間学校」と記載されていたが、64・66・68(昭和39・41・43)年には「ユースホステル 奥摩耶ハウス」とされ、69・71・74・76(昭和44・46・49・51)年には「市立摩耶高校 市立御影工高 奥摩耶ハウス」となり、78(昭和53)年以降は、記載がなくなっている。これらのことから、当初はユースホステルではなく林間学校という価値付けであり(あるいはユースホステル=林間学校という意味か?)、60年代前半に明確にユースホステルになったものの、60年代末には地元高校の林間学校的な施設に変わり、その後70年代後半に解体撤去されたものとも推測される。前回紹介した奥摩耶山荘は営業期間が15年ほど(1954(昭和29)年~70(昭和45)年頃)、マヤカンは戦前戦中が16年(1929(昭和4)~45(昭和20)年)、戦後が6年(61~67(昭和36~42)年)、今回の奥摩耶ハウスは約15年である。一方、奥摩耶山荘が解体された後に新築された国民宿舎 摩耶ロッジの建物は、営業期間は25年(1970~95(昭和45~平成7)年)、6年の休業後にリニュアルされ現在のオテルド摩耶となってからすでに14年(2001~(平成13~)年)、合算すれば39年、建物自体も築45年となっている(ただし公営の国民宿舎という意味では奥摩耶山荘から50年以上継続)。マヤカンは周知の通り複雑な事情の結果であるが、奥摩耶山荘や奥摩耶ハウスは明らかに営業期間や建物の存在期間が短いと評価できる。おそらくは建築構造がどちらも木造で耐久性に問題があったのだろうが、一方でその作りが粗雑であった可能性も想定される。

# by nk8513 | 2015-03-18 15:02 | Comments(0)
2015年 03月 13日

摩耶観光ホテルについて37(資料34)

資料紹介34 リーフレット「静かな奥摩耶山荘」、神戸市電弘済会?、1950年代後半?

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静かな奥摩耶山荘1

 かつて奥摩耶(摩耶山頂)地区に存在したホテル「奥摩耶山荘」のリーフレット。発行年は特に記載されていない。同ホテルは1954(昭和29)年7月に開業しているが、ここに紹介されている奥摩耶地区には1955(昭和30)7月に営業開始した「奥摩耶ロープウェー(現・まやビューライン夢散歩)」が記載され、また1956(昭和31)年7月に完成したとされる「マウントコースター」などに代表される施設が紹介されていることから、早くとも50年代後半以降の制作と思われる。またホテルの電話番号が修正されていることから、その後1960年代後半まで使用・頒布されていたものとも想定される。マヤカンが摩耶観光ホテルとして営業していたのは、1961(昭和36)年から67(昭和42)年であるので、この時期摩耶山には2つの宿泊施設が存在していたことになる。その後、奥摩耶山荘は1970(昭和45)年前後に営業を停止し建物は撤去されて、同年4月に新たに「国民宿舎摩耶ロッジ」が新築されて再オープンした(現「オテル・ド・マヤ」の前身)。


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静かな奥摩耶山荘2

 左下の建物はホテル西側に存在した別館の建物のようである。一方、右の部分には「32室100名収容」などのホテルの概要、その下部には奥摩耶地区の説明等が記されている。

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静かな奥摩耶山荘3

 1950年代後半から70年代にかけて「奥摩耶遊園地」として機能していた奥摩耶地区の諸施設が地図で紹介されている。マウントコースターのレイアウト等が確認できるが、他にも地図の右下にかつて存在していた「ユースホステル」の建物も記載されている(下図も参照)。ここは現在はテレビ局等の電波中継施設が立ち並んでいる。同時期のガイドブックや住宅地図などから、正式名称は「ユースホステル奥摩耶ハウス」であったらしい。その正確な営業期間は不明だが、同時期の住宅地図によれば、50年代後半は「林間学校 奥摩耶ハウス」と記載されていたが、60年代前半にはユースホステルとなり、70年代前半には神戸市立高校の施設(それでも名称は奥摩耶ハウス)となっていた。さらに70年代後半には建物自体の記載がなくなっており、おそらくこの時期に解体撤去されたものと考えられる。
 また地図左下には「奥の院跡」「一本杉」の記載があるが、ここに現在は天上寺の伽藍が存在している。この当時、天上寺はまだ摩耶山中腹(現・史跡公園)にあったが、1976(昭和51)年1月に火災によりほぼ全焼した。その後、80年代に入って天上寺創建の場所と伝承され、一本杉があったこの地に伽藍が再建されている。


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静かな奥摩耶山荘4

 左中に前述したユースホステルの建物が掲載されている。


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静かな奥摩耶山荘5

 ここに登場する「名物かまぶろ」は、以前紹介した絵はがき集でも確認できるものである。


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静かな奥摩耶山荘6

 左下の「観光放牧場」は1956(昭和31)年に開業した観光牧場で、現在の「六甲山牧場」の起源となる施設である。


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静かな奥摩耶山荘7

なお上記リーフレットは「摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料」で紹介していたが、ここで改めて紹介する。

# by nk8513 | 2015-03-13 16:39 | Comments(0)
2015年 02月 06日

摩耶観光ホテルについて36(資料33)

資料紹介33 「軍艦ホテル」(朝日新聞神戸支局編『兵庫の素顔』海文堂、1977(昭和52)年7月、174-175ページ)

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軍艦ホテル1

 マヤカンが摩耶学生センターと称されていた時期に紹介した記事。これは元々、1977(昭和52)年1月から6月に朝日新聞の第二兵庫版および第二阪神版に連載された「兵庫の素顔」シリーズ内の1記事(掲載日未確認)であったものを、同年7月に朝日新聞神戸支局がまとめた同名の書籍に掲載されたものである。


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軍艦ホテル2

 この記事の重要な点は2つあり、1つは摩耶観光ホテルが閉鎖され、廃虚になりかかりながらも、学生向けの宿泊施設として利用されていた時期を記録していることにある。ケーブル会社や行政、あるいは郷土史家等による文献に、マヤカンは比較的多く記載されているが、そのほとんどは戦前の摩耶山温泉ホテルか戦後の摩耶観光ホテル時代のことに専ら注目し、この記事に記載されている廃虚あるいは摩耶学生センターの状況についてはほとんど触れられていない。特に、摩耶観光ホテルとして再デビューしたが、「四十ニ年(1967年)夏の台風被害から立ち直れず三たび閉鎖」した点、さらにその後、管理人(実名記載されているが、ここでは空白に修正)が住み込み、やがて「学生のゼミ、サークル合宿などに限って施設の一部を開放した」などは、廃虚ブームに関連した関連書籍に引用されるまで他に記されなかった事柄である。


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軍艦ホテル3

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軍艦ホテル4

 次に重要なのは、前の引用にみられるように、この記事がその後に記載・出版される郷土誌・社史やそれらに基づく廃虚関連書籍などのマヤカンに対する主要な参考文献となっていることにある。摩耶学生センター時代以降の状況については、宿泊利用者の証言以外ではこの記事が唯一のデータソースとなっており、やや飛躍すればマヤカンの歴史を証明する資料となっているのである。逆にこの記事がなければ、私がかつて結核などの療養所であったなどという噂話を聞いたように、マヤカンの来歴についておそらく様々な話が混在・構築されていたとも想像される。ただし、記事内にある「アールヌーボー風の洋風ホテル」という記載は、郷土誌や初期の廃虚関連書籍(『懐古文化綜合誌 萬』愚童學舎、1999など)にそのまま引用されているが、実際はマヤカンが建てられた時期および形態からアール・デコ様式と思われる(近年の文献資料には記載・多)。このような負の影響力(他にも「昭和七年春に建てた」とあるが、実際は1929(昭和4)年11月竣工)も存在するが、それでもマヤカンの歴史にとっては、古い絵はがきやリーフレット以上の資料的価値を有するものと評価される。


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軍艦ホテル5

 書籍版にはここにあげた空撮されたと思われるマヤカンの写真が掲載されている(オリジナルの新聞記事に掲載されたかは未確認)。白黒写真とはいえ、よく見ると外壁などが傷んでいるような状況がうかがえるものの、1929(昭和4)年に竣工したベース部分に、摩耶観光ホテル時代に増設された部分(主に5階)が明確に存在し、現在残されている状態と明らかに形態的に異なっている。吉川晃司が主演した映画「ユー☆ガッタ☆チャンス」(1985(昭和60)年2月公開)の時には、増設部分の大半が撤去され、ほぼ現存する状態になっていることから、1970年代末から80年代前半にかけて、それなりの規模の改修工事が行われたと推測される。これは『懐古文化綜合誌 萬』などが記す「グリルから出た火が元で営業を停止。八十年代中頃に閉鎖」という話と関連したものかもしれない(実際は摩耶学生センターは1993(平成5)年頃まで営業継続している)。
 また近年、ネット上でB-29のものではないかとの噂が一部で指摘されていた航空機の車輪であるが、屋上中央部分に固定されている様子が確認できる。この部分は戦前の摩耶山温泉ホテルの時期には使用を確認できる資料は存在しないが、摩耶観光ホテルの時には、「屋上ビアガーデン」あるいは「スカイビアガーデン」と呼ばれ、車輪の回りにベンチ・テーブルが並べられていた(中央奥に建っている小屋はその時に使用されたものと推定、1990年代前半まで存在)。なぜ車輪なのか、オブジェとしてもよくわからないが、それは明らかに上空からホテルに落ちてきたものではない。ただし、戦時中にホテル周辺に落ちてきたものを保管していたという仮説もたてられないわけではないが、それも常識的とは思えない。

# by nk8513 | 2015-02-06 00:51 | Comments(0)