摩耶観光ホテルについて

nk8513.exblog.jp
ブログトップ | ログイン
2015年 03月 18日

摩耶観光ホテルについて38(資料35)

資料紹介35 リーフレット「日本ユースホステル協会指定 奥摩耶ハウス」、神戸市交通局、1955年?

摩耶観光ホテルについて38(資料35)_d0065273_14541853.jpg
奥摩耶ハウス1

 かつて奥摩耶(摩耶山頂)地区に存在したユースホステル「奥摩耶ハウス」のリーフレット。発行年は特に記載されていないが、掲載されている地図に1954(昭和29)年7月に開業したホテル奥摩耶山荘、1955(昭和30)年7月に営業開始した「奥摩耶ロープウェー(現・まやビューライン夢散歩)」や同時期に整備された奥摩耶遊園地の諸施設が確認できる一方、1956(昭和31)年7月に完成したとされる「マウントコースター」は記載されていない。よって発行年は1955(昭和30)年頃とも想定されるが、実際にはもっと遅い60年(昭和35)頃の可能性もある。

摩耶観光ホテルについて38(資料35)_d0065273_14543585.jpg
奥摩耶ハウス2

 リーフレット左中程にある説明の通り、奥摩耶ハウスはロープウェーとほぼ同じ時期に同じ神戸市交通局によって建設・開業されたようであり、したがって開業年も同じ1955(昭和30)年と思われる。なおユースホステルについては、数多くの文献やサイトで記されている。それらによれば、ユースホステルは「青少年少女の旅に安全かつ安価な宿泊場所を提供しようという主旨で始まった運動と、それにより生まれた、宿泊施設の世界的なシステム」(Wikipedia:ユースホステル,2015年3月18日閲覧)であり、1912(明治45)年にドイツで誕生したものが、第二次大戦前にはヨーロッパからアメリカ、大戦後には全世界に拡大している。日本には大戦後にアメリカの関係者の来日や、日本青年館関係者の訪米視察などによって、1951(昭和26)年10月に日本ユースホステル協会が設立され、当初は東京・日光・富士・伊豆等13ヶ所に委託契約という形で設置された。その後、54年(昭和29)年8月に協会が国際連盟(1932(昭和7)年設立)に加盟、55(昭和30)年には北海道の支笏湖に協会直営のユースホステルの第1号が誕生し、以後各地に施設がつくられ現在に至っている。このことから、奥摩耶ハウスは日本でのユースホステル導入期につくられた施設の一つであったということになる。

参考サイト:
Wikipedia ユースホステル
日本ユースホステル協会「ユースホステルってなに?」
色即ぜねれいしょん「ユースホステルの歴史を学ぶ」
釧路湿原とうろユースホステルです「ユースホステルの歴史&資料館」
日本ユースホステル運動史

摩耶観光ホテルについて38(資料35)_d0065273_14544948.jpg
奥摩耶ハウス3(掲載された地図)

 前回紹介した資料や今回のリーフレット等から、1955(昭和30)年頃に開業したと思われる奥摩耶ハウスであるが、その後の状況は不詳である。ユースホステルがあった場所は、以前指摘したように、現在テレビ局等の電波中継施設が立ち並ぶエリアである。1950年代後半~70年代(昭和30~50年代)の住宅地図によれば、56・58・59(昭和31・33・34)年は「奥摩耶ハウス 林間学校」と記載されていたが、64・66・68(昭和39・41・43)年には「ユースホステル 奥摩耶ハウス」とされ、69・71・74・76(昭和44・46・49・51)年には「市立摩耶高校 市立御影工高 奥摩耶ハウス」となり、78(昭和53)年以降は、記載がなくなっている。これらのことから、当初はユースホステルではなく林間学校という価値付けであり(あるいはユースホステル=林間学校という意味か?)、60年代前半に明確にユースホステルになったものの、60年代末には地元高校の林間学校的な施設に変わり、その後70年代後半に解体撤去されたものとも推測される。前回紹介した奥摩耶山荘は営業期間が15年ほど(1954(昭和29)年~70(昭和45)年頃)、マヤカンは戦前戦中が16年(1929(昭和4)~45(昭和20)年)、戦後が6年(61~67(昭和36~42)年)、今回の奥摩耶ハウスは約15年である。一方、奥摩耶山荘が解体された後に新築された国民宿舎 摩耶ロッジの建物は、営業期間は25年(1970~95(昭和45~平成7)年)、6年の休業後にリニュアルされ現在のオテルド摩耶となってからすでに14年(2001~(平成13~)年)、合算すれば39年、建物自体も築45年となっている(ただし公営の国民宿舎という意味では奥摩耶山荘から50年以上継続)。マヤカンは周知の通り複雑な事情の結果であるが、奥摩耶山荘や奥摩耶ハウスは明らかに営業期間や建物の存在期間が短いと評価できる。おそらくは建築構造がどちらも木造で耐久性に問題があったのだろうが、一方でその作りが粗雑であった可能性も想定される。

by nk8513 | 2015-03-18 15:02 | Comments(0)


<< 摩耶観光ホテルについて39(資...      摩耶観光ホテルについて37(資... >>