摩耶観光ホテルについて
2022-09-06T22:22:59+09:00
nk8513
摩耶観光ホテルについて
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摩耶観光ホテルについて56(資料53)
http://nk8513.exblog.jp/29317676/
2022-09-01T11:54:00+09:00
2022-09-06T22:22:59+09:00
2022-09-01T11:54:58+09:00
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1967(昭和42)年4月29日に公開された映画「春日和」に関係すると思われるスチール写真の一枚。これは以前、旧・六甲ヒルトップギャラリー所蔵の写真)を紹介した際に、関連として提示した2枚のスチール写真と同種のものと考えられるが、今回のものは撮影場所がマヤカンと考えられる。また、この写真により、ヒルトップギャラリーの写真が春日和に関連していることを補強する資料ともなるものである。よって以下では、以前紹介した写真もすべて再掲する。
写真1 「春日和」のスチール写真1
まず、この写真の右下には「春日和[映倫]」、左下には映画を製作した松竹の社章マークが記されており、これが春日和に関係するものであることが確認される。この表記は、以前に紹介した2枚の写真でも同じであるが、社章の左側の数字は、今回のものが「7」、以前のものが「2」と「6」と異なっている。これはおそらく、映画の宣伝用に作成された複数のスチール写真の番号を示していると考えられる。このことから、春日和のスチール写真は、少なくともこの他に4枚あると推測される。
写真2 「春日和」のスチール写真2(再掲)
写真3 「春日和」のスチール写真3(再掲)
次に旧・六甲ヒルトップギャラリー所蔵の写真と比較すると、岩下志麻と左幸子の服装や髪型、コートや膝掛け(あるいはマフラー)等がほぼ一致、栗塚旭についてもスーツ姿、山形勲は服装が判然としないが、髪型や白髪交じりの状態が似ている。唯一、栗塚旭が座っている椅子にかかっているコートがスチール写真では確認できないが、ほぼ同じ人物が同じ服装等であると判断できる。
写真4 旧・六甲ヒルトップギャラリー所蔵の写真(再掲)
そして肝心の撮影された場所であるが、ヒルトップギャラリーの写真は以前から指摘しているように、マヤカンが摩耶観光ホテルとして増築・リニュアルした際に「スカイビアガーデン」などに使用されていた屋上部分と思われる。一方、今回の写真では、出演者をアップした構図で、屋上の端で撮影されているため、建物の全体的状況を確認できない。ただし、彼らの背後に白い金網がついた柵があるが、これはヒルトップギャラリーの写真からも同様のものが確認できる。さらに山形勲の背後、屋上の角部分には長い鉄製と思われる棒があるが、これはおそらくマヤカン屋上に設置された照明の柱部分であると推測される。これはヒルトップギャラリーの写真や、すでに紹介している摩耶観光ホテル時代の資料(A・B)などからも確認することができる。写真から窺える構図からして、マヤカン屋上の東南の隅、あるいはマヤカンが南せり出した部分(下部がグリル・大食堂・客室部分)の東南隅の二つの候補があるが、背後のすぐ下に山麓を望む状況になっていることからして、個人的には前者の可能性が高いと思われる。当時の状況が確認できる「地理院地図」(当時の空中写真)や「今昔マップ」(当時の地形図)、および当時の住宅地図などと比較して、この写真から長峰霊園や後に鶴甲団地になる山を切り崩している造成地などが確認される。
写真5 スチール写真から確認される場所
以上、上記の検討の結果、このスチール写真および前出の旧・六甲ヒルトップギャラリー所蔵の写真は、どちらも春日和の撮影時に摩耶観光ホテル屋上部分で撮影されたものと判断される。以前から指摘している通り、春日和はマヤカンの摩耶観光ホテル時代の最末期に撮影された可能性が高く、映画やこれらの写真は貴重な資料である。映画については、相変わらずDVD化などはされてはいないが、2022年8月20~26日にかけて東京の神保町シアター(小学館100周年生誕百年映画祭)で上映されたばかりのようである。また2021年3月には「松竹メロドラマの系譜」という特集で、大阪のシネ・ヌーヴォで4回ほど上映されたようであり、かつマヤカンがロケ地になっていることをシネ・ヌーヴォ関係者が宣伝的に紹介までしている。周知の通り、マヤカンは2021年6月(答申は3月)に廃墟としては稀有な国の登録有形文化財になり、社会での認知度は高まっており、シネ・ヌーヴォの関係者の書き込みもこれを意識したものであった。これらのことから、映画の本編からは外れるが、映画「ユー・ガッタ・チャンス」やドラマ「過ぎし日のセレナーデ」などと同じく、あるいは廃墟ではなくホテルとして営業していたという点をふまえればそれら以上に、マヤカンの関連という面での春日和の資料的価値は増しているといえよう。
写真6 「春日和」ポスター(再掲)
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摩耶観光ホテルについて(目次)
http://nk8513.exblog.jp/29316886/
2022-08-31T20:06:00+09:00
2022-09-01T17:00:30+09:00
2022-08-31T20:06:55+09:00
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1年表
摩耶観光ホテルについて1-3(歴史1-3)
摩耶観光ホテルについて3(歴史3)
摩耶観光ホテルについて2(歴史2)
摩耶観光ホテルについて1(歴史1)
2第2次大戦前の1925~40年頃(主に摩耶山温泉ホテルの時期)
Aリーフレット
資料紹介1 『摩耶山案内』摩耶鋼索鉄道株式会社、1929年
資料紹介5 『春はまや山へ』まやケーブル(摩耶鋼索鉄道株式会社)、1937(昭和12)年~39(昭和14)年の春頃
資料紹介6 『爽涼 夏ノ摩耶山 海抜2000呎 大阪から阪神電車連絡 往復割引 1円 市バス共』まやケーブル(摩耶鋼索鉄道株式会社)、1936年夏
資料紹介10 『秋 観艦式拝艦之最好適地 大阪から阪神電車連絡往復割引1円 市バス共』まやケーブル(摩耶鋼索鉄道株式会社)、1936年秋
資料紹介11 『初詣 皇軍武運長久 家運隆昌 祈願』まやケーブル(摩耶鋼索鉄道株式会社)、1939年末
資料紹介15 『春の摩耶山 眺望絶佳 大阪から阪神電車連絡 往復割引たった一圓 』まやケーブル(摩耶鋼索鉄道株式会社)、1934~1935年春頃
資料紹介16 『春!! 武運長久祈願 霊峰 花のまや山』神戸名所 まやケーブル(摩耶鋼索鉄道株式会社)、1938~39年春頃
資料紹介23 『神戸名所まや山』まやケーブル、1933~34年頃
資料紹介51 「秋のメモ」阪神電気鉄道株式会社、1935(昭和10)年頃
資料紹介52 『摩耶山案内』摩耶鋼索鉄道株式会社、1925(大正15)年
B絵はがき
資料紹介4 絵はがき集「摩耶温泉土産」(一部)など
資料紹介7 絵はがき集「摩耶山ケーブルカー CABLECAR ON MOUNT MAYA」、赤西萬有堂?
資料紹介12 絵はがき「(摩耶名勝)摩耶ホテル(Mayasan)Maya Hoteru」など(5枚)、赤西萬有堂、1935年頃?
資料紹介17 絵はがき「摩耶山上ホテル SOUVENIR OF MAYA」、赤西萬有堂、1935年頃
資料紹介18 絵はがき集「摂津摩耶山」、赤西萬有堂、1935年頃
資料紹介19 絵はがき集「摩耶山ホテル」「摩耶山遊園地」など、赤西萬有堂、1935年頃
資料紹介20 絵はがき集「摩耶山名勝」、赤西萬有堂、1935年頃?
資料紹介21 絵はがき「摩耶山ホテル View of M.T. Maya」、1935年頃?
資料紹介24 絵はがき「神戸摩耶山・まや山ホテル露台」摩耶温泉?、1930年頃
資料紹介25 絵はがき集「摂津摩耶山参拝ケーブルカー(御土産)」、摩耶鋼索鉄道株式会社摩耶高尾駅構内売店
資料紹介26 絵はがき集「摂津摩耶山参拝ケーブルカー」、摩耶鋼索鉄道株式会社
資料紹介27 絵はがき(神戸)摩耶山 ケーブルより俯下せる神戸市及其郊外の大観 COMMANDING VIEW OF KOBE CITY AND ITS SUBURB FROM THE CABLE CAR ON MT. MAYA,KOBE.
資料紹介28 絵はがき「摩耶山全景」など、神戸 岡部商店印刷事務所?、1935年頃
資料紹介29 絵はがき集「摩耶山参拝記念絵葉書」、天上寺?、1930~35(昭和5~10)年頃?
資料紹介30 絵はがき集「摩耶山参拝記念絵葉書」、天上寺?、1930~35(昭和5~10)年頃?
資料紹介36 絵はがき「攝津摩耶山ケーブルカー急勾配ノ景」など3枚、1925~29(大正14~昭和4)年頃?
資料紹介37 摩耶鋼索鉄道株式会社発行の絵はがき、1929~30年頃
資料紹介43 絵はがき集「摂津摩耶山 参拝記念 摩耶ケーブル」摩耶鋼索鉄道株式会社
資料紹介48 絵はがき「MAYASAN HOTEL KOBE」摩耶鋼索鉄道株式会社、1929~30年頃?
Cその他
資料紹介14 竣工間もない頃の摩耶山温泉ホテル (六甲ヒルトップギャラリー蔵)、1929年10~11月頃
資料紹介49 「開設当時の摩耶山温泉」(阪神電気鉄道株式会社臨時社史編纂室編『輸送奉仕の50年』阪神電気鉄道株式会社、1955(昭和30)年)
3第2次大戦後の1950年代後半(マヤカンが閉鎖されていた時期)
資料紹介9 絵はがき集『摩耶山 MT.MAYA 総天然色八枚組』1955年頃
資料紹介31 絵はがき集「国立公園 奥摩耶 Okuyama National Park」、1956(昭和31)年頃
資料紹介32 絵はがき集「国立公園 まや山 NATIONAL PARK Mt.Maya」、摩耶鋼索鉄道株式会社、1950年代後半(昭和30年代前半)?
資料紹介34 リーフレット「静かな奥摩耶山荘」、神戸市電弘済会?、1950年代後半?
資料紹介35 リーフレット「日本ユースホステル協会指定 奥摩耶ハウス」、神戸市交通局、1955年?
資料紹介45 リーフレット「国立公園まや山 まやケーブル」、摩耶鋼索鉄道株式会社、1958~60年(昭和33~35)頃
資料紹介47 絵はがき集「国立公園 摩耶山 NATIONAL PARK Maya」、奈良 岡村印刷工業、1950年代末~60年代初?
41960年代、摩耶観光ホテルの時期
資料紹介2 摩耶観光ホテルの案内など
資料紹介3 摩耶観光ホテルの案内など2
資料紹介8 広告「国立公園まや山へ!」、神戸市交通局・まやケーブル、1961~67年頃
資料紹介13 「国立公園周遊指定地 摩耶山」、1967~1970年頃
資料紹介38 映画「春日和」における摩耶観光ホテル(旧・六甲ヒルトップギャラリー蔵)、1966年冬~67年初頭?
資料紹介44 『月刊神戸っ子』における摩耶観光ホテルの広告
資料紹介50 「摩耶山」など(日本国有鉄道編集「旅行画報 トラベルグラフ」No.169、1967(昭和42)年12月)
資料紹介53 映画「春日和」における摩耶観光ホテル2(増補)
51970年代以降(主に摩耶学生センターの時期)
資料紹介22 摩耶ケーブル・奧摩耶ロープウェイの乗車券(半券)、1971・69年頃
資料紹介33 「軍艦ホテル」(朝日新聞神戸支局編『兵庫の素顔』海文堂、1977(昭和52)年7月、174-175ページ)
資料紹介42 絵はがき集「国立公園 周遊指定地 摩耶山 NATIONAL PARK Mt.Maya, Kobe」、1972~75年頃(昭和47~50)
資料紹介46 「神戸・異国情緒(Exoticism in KOBE)」雑誌『an・an』(平凡出版社、現・マガジンハウス社)7巻19号(通巻No.155)、1976年(昭和51)9月20日、148~167ページ
6住宅地図(1956~76年)
資料紹介39 住宅地図における摩耶山 その1(1956-64)
資料紹介40 住宅地図における摩耶山 その2(1966-69)
資料紹介41 住宅地図における摩耶山 その3(1971-76)]]>
摩耶観光ホテルについて55(資料52)
http://nk8513.exblog.jp/28892348/
2021-10-02T08:57:00+09:00
2022-09-01T17:00:30+09:00
2021-10-02T08:57:35+09:00
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摩耶山案内1(鳥瞰図:摩耶山付近)
ケーブル会社による摩耶山の名所を紹介するリーフレット。出版は1925(大正14)年5月で、1月にケーブルが営業開始してから4ヶ月後にあたる。マヤカンは1929(昭和4)年11月竣工なので、その4年前となる。ただし、今回紹介するものは、後述する状況から1928(昭和3年)以降に薄紙を一部貼り付けて配布、または販売したものと考えられる。サイズは閉じた状態で縦18.3cm×横10.7cmであるが、後述する鳥瞰図を提示するためか、開いた状態では96.8cmに及ぶ。
摩耶山案内2(表紙)
摩耶山案内3(鳥瞰図全体)
今回のリーフレットは、タイトルの通り摩耶山や天上寺の紹介をするものであるが、ここで注目されるのはリーフレット表面全体に摩耶山を中心に東は大阪、西は須磨明石(和歌山や淡路島も包含)を空中から地上を見おろしたように描いた鳥瞰図である。こうしたものは、管見の限りケーブル会社発行の案内や絵はがき等では唯一のものと思われるが、明治から昭和初期に発行された観光用のリーフレット・パンフレットやガイドブックなどには、比較的多く確認されるものである。これらの多くは発行当初に実際の観光に参照された以後、ほぼ忘れ去られていたが、1990年代後半以降、当時の観光の様子や案内資料の特徴、鳥瞰図のアーティスティックな側面などから注目され、同時に資料(作品)のデータベース化(確認作業)も進展した。その中で、吉田初三郎や金子常光・松井天山など、鳥瞰図作成数が多く、かつ芸術的な魅力をも感じさせる図を作成した商業美術家(近年では「鳥瞰図絵師」とも呼称)にも注目が集まり、復刻の資料集や関連書籍の発行も相次いでいる。
よって、今回の摩耶山の鳥瞰図も、当時の観光案内の一般的な形式と理解することができるが、その作者については不明である。吉田初三郎などの有名「絵師」によるものには、関連資料で作成が確認できる他、多くの場合彼らの署名・落款が鳥瞰図に印刷されているが、この摩耶山のものにはそれを示唆する資料も書名なども確認できない。ただ、初三郎でも鉄道省が作成した『鉄道旅行案内』に掲載した鳥瞰図でも書名・落款を記していないものもあり、今後関連資料や画風などから作者が特定される可能性もある。
摩耶山案内4(鳥瞰図1)
摩耶山案内5(鳥瞰図2)
図の摩耶山は、麓にケーブルの高尾駅(現・ 駅)、そこからケーブル線が伸び、中腹に摩耶駅(現・ 駅)、その左側(西側)に3つの建物が描かれた先に天上寺の仁王門、そこからの石段の先に本堂・多宝塔などの伽藍あり、その上部に山頂が描かれている。ケーブルの沿線に桜と思しきピンク色の樹木が記載されているが、当時の絵はがきからは樹木が切り開かれ土砂がむき出しの場所にケーブル線が敷設されている様子を確認でき、実態と乖離があるように感じられる。ケーブル会社の社史(『六甲山とともに五十年』)の年譜によれば、1926(大正15)2月に「ケーブル遊園地200坪開拓 遊戯具設置、桜、楓、桃、梅等数百本を植樹」とあり、また後のリーフレットには桜を宣伝するもの(①・②・③)もあるので、当初から植樹を想定していたと考えられる。ただし、ケーブル沿線まで植樹されたかは未確認である。 摩耶駅左側の建物群については、社史に「鋼索鉄道の開通と同時に(中略)摩耶駅付近に食堂、売店などを建設、遊園地には展望台、無料休憩所、遊戯具などを設備」(45-46ページ)、またこのリーフレット発行と同じ1925(大正14)5月に「摩耶駅付近に摩耶食堂開業 他に貸売店8戸開業」(社史年譜)と記されていることから、食堂・売店・展望台などを描いていると思われる。反対に摩耶駅の右側には何も描かれないが、1929(昭和4)年にマヤカンが建設される場所である(またケーブル開通の1925(大正14)年の7月に「夏季テント村開設」(社史年譜)とあるが、これも右側にあったと思われる)。
摩耶山案内6(鳥瞰図3)
鉄道線については、国鉄(現・JR線)のみ白黒の鉄道線で描いているが、阪神や阪急、須磨明石方面の兵庫電気軌道(現・山陽電鉄、ただし路線に若干の変更あり)、今は廃止されている神戸市電などはすべて赤の太線にとなっており、どの路線か区別しづらい。現在と路線や駅の状況も現在とは微妙に異なり、また後述する摩耶山へのアクセスにも関連するので、注意すべき点を以下にあげる。
1摩耶山の左下(西南)にある「上筒井」は、阪急神戸線(1920(大正9)年開通)の当時の終点駅で、神戸市電(布引線、1919(大正8)年開通)との接続駅であった。阪急が現在のように三宮に乗り入れるのは、1936(昭和11)年になってからである。上筒井駅は、現在の王子公園駅の西側に位置し、三宮乗り入れ後の1940(昭和15)年に廃止されたが、神戸市電の駅としては1969(昭和44)3月まで存続した(1943(昭和18)年に上筒井1丁目に改称)。
2神戸の中心部に「阪神終点」とあるのは、神戸市電の接続状況などから当時の阪神電鉄本線の終点であった滝道(瀧道)駅と思われる。同駅は現在の神戸国際会館西側付近(現・フラワーロード)にあり、神戸市電との接続駅であったが、1933(昭和8)年に阪神の地下路線化および元町駅への延伸などのより廃止となり、これに加えて神戸市電の路線拡充・一部廃止の動きにより、1935(昭和10)年に市電の駅も廃止された。駅名に関しては、生田川上流の布引の滝に向かう道路、布引道(現・フラワーロード)沿いにあったことによると思われる。布引道は現・フラワーロードであるが、1871(明治4)年の付け替え工事以前は、ここを生田川が流れており、布引道は川跡を道路に整備したものである。
3「阪神終点」である滝道駅の北側は、現在JR(旧国鉄)三ノ宮駅があるが、当時ここに国鉄の駅は存在していなかった。最初の三ノ宮駅は、「阪神終点」にやや左側(西側)に「三宮」と記されたものであり、これは現在の元町駅である。初期の三ノ宮駅(元町駅)は1874(明治7)年に日本で2番目に古く開通した大阪神戸間の官設鉄道開業時に設置され、1931(昭和6)年に路線の高架化により、現在地に三ノ宮駅が開業し、元の三ノ宮駅は元町駅と改称され現在に至っている。
摩耶山案内7(鳥瞰図:摩耶山周辺)
鉄道の関連で、ケーブル高尾駅を中心に「連絡予定線」と赤の点線で記載され、駅の左に自動車らしき図柄も確認できる。これについては、ケーブル会社の社史に1925(大正14)1月のケーブル開通と同時に「乗合自動車営業開始」(年譜)ともあるので、基本的には阪急や阪神の鉄道駅からの乗合自動車路線を示していると思われる。ただし、鳥瞰図の裏面の案内には「猶市電上筒井終點と、阪神電車石屋川停車場との間に、電車を誘致して、電車を敷設して、登山鉄道に連結する会社の第二期線が開通する迄は、上筒井と高尾駅に乗合自動車を運転して、御客様の、御便宜を図ってをります」とあるので、乗合自動車は阪急の上筒井駅からのみであったことがわかる。またこれに関して、社史には次のような記載も確認される。「大正12年から昭和11年にかけて、神戸市上筒井通2丁目から御影石屋に至る約5kmの電気軌道(二期線という)と既存の鋼索線とを結ぶ鋼索延長線700mの敷設免許を受け、さらにケーブル山上駅から天上寺仁王門まで820mの乗合自動車運輸事業の免許を受けるなど事業の拡大発展を期したが、ぼう大な費用がかかるのと当時の社会情勢の変化から残念ながらそれぞれ返上した」(46ページ)という記述である。つまりはケーブル線を高尾駅(標高 約140m)より700m延長して、標高の低い場所に新駅を設置し、さらにこの駅に接続する阪神本線の石屋川から当時の阪急終点の上筒井までの鉄道路線の計画があり、この図にそれが反映されたと思われる。これはケーブル会社による計画線であるが、同社が阪神電鉄の傘下企業であることから、仮に開通した場合は、特に電気軌道については阪神の支線的存在になった可能性もある。これら計画線の詳細な経路は不詳だが、およそ阪神石屋川駅からほぼ現・県道95号線(灘三田線)、あるいは石屋川沿いにそって北上し、阪急を超えたあたりで、現・市道山麓線かあるいは阪急線沿いにそって西に向かい、ケーブル延長線の距離から推定して、現・灘区の畑原通から天城通付近(現・摩耶小学校付近 標高約60m)でケーブル新駅に接続し、そこからは阪急線沿いに上筒井に至るルートであったと思われる。ただし、この図に記された予定線は既存の高尾駅に接続しており、計画通りの経路などを正確には描けていない。また、社史にあるように、この計画はまもなく頓挫したらしく、マヤカンが開業した以降の資料には、阪神大石駅からの乗合自動車も記載されている。
摩耶山案内8(各名所写真)
今回の「摩耶山案内」の鳥瞰図は、マヤカンのできる前のものであるが、吉田初三郎の作となる1930(昭和5)年発行の神戸全体を主題とした鳥瞰図には、摩耶山も詳細に描かれており、そこに「摩耶ホテル」の名称でマヤカンも描かれている。この鳥瞰図は、一部のサイト(古地図で愉しむ大阪まち物語・オールド観光案内図コレクションなど)でも紹介されていたが、2020(令和2)年4月から大学共同利用機関法人である「国際日本文化研究センター」が、初三郎らの鳥瞰図を詳細に閲覧できる吉田初三郎式鳥瞰図データベースを公開し、その中で見ることができるようになった。またこのベータベースからは、他の鳥瞰図でもマヤカンが記載されていることを確認した。以下に紹介しておく。
1吉田初三郎『神戸』川瀬三郎書店・松浦集古館、1930(昭和5)年:摩耶ホテル L字の建物に摩耶駅からの渡り廊下まで描かれている。ただし建物の方向が間違っていると思われる。本来は正面(南側、市街地側)から見て左側(西側)に建物が南にせり出しているが、ここでは右側(東側)が出ている。正面が市街地のある南側ではなく、西側を向いている状態になっている。
2作者不詳『神戸市案内絵図』凸版印刷、年代不詳:ケーブルの駅付近にマヤカンと思しき白亜の大型の建物が描かれている。これに加えて、鉄道の路線・駅の状態から発行年は1931~33(昭和6~8)年頃と推定される。
3作者不詳『山陽電鉄案内』山陽電氣鐵道株式會社運輸課、年代不詳:建物の記載はないが、摩耶山付近に「まや温泉」と表記されている。鉄道の路線・駅の状態から発行年は1936~40(昭和11~15)年頃と推定される。
4吉田初三郎『西宮市』西宮市役所、1936(昭和11)年:ケーブル摩耶駅にマヤカンらしき白亜のL字型の建物が描かれている。ただし、初三郎『神戸』と同じく、L字の建物配置が正確ではない。不明瞭ながらせり出す部分が左右逆になっている(市街地側(南側)をしている点は正しく表記されている)。
5吉田初三郎『大阪府鳥瞰圖』大阪府、1932(昭和7)年:確認しづらいが六甲山の右側に摩耶山や布引の滝が記載され、そこにマヤカンらしき白亜の建物が描かれている。初三郎のマヤカンは位置関係が不正確だが、ここは鳥瞰図ならではの方向や位置関係を独自にアレンジしているため、この図に関する限り誤っているとまでは言い切れない。ただし建物はL字ではなく、大小の建物が連結しているように見える。
6作者不詳『阪神電車沿線案内』阪神電車、年代不詳:まや山温泉の名称でマヤカンらしきL字型の建物が描かれている。ややデフォルメされているが、建物配置は正確である。鉄道の路線・駅の状態から発行年は1933~35(昭和8~10)年頃と推定される。
*なお今回紹介している『摩耶山案内』もこのデータベースに含まれている。:作者不詳『摩耶山案内』摩耶鋼索鐵道株式會社、1925(大正14)年
摩耶山案内9(案内1)
摩耶山案内10(案内2)
摩耶山案内11(案内 補充用紙1)
鳥瞰図裏面の案内には、天上寺を中心に摩耶山の名所やアクセルなどを詳細に紹介しているが、ここには薄紙の補足用紙が2箇所貼り付けられている。1枚目は、「摩耶山城址」についてであり、鎌倉末期に後醍醐天皇に味方して、幕府に対して挙兵した播磨西部を拠点としていた赤松円心が摩耶山に城を築き、幕府軍と戦った経緯を説明している。摩耶山城は、天上寺、あるいはケーブル摩耶駅付近にあったともされ、マヤカンが竣工した直後に発行された案内にも「現今ケーブル線の終点摩耶駅の付近に於て城砦の礎石と認むべきもの現存するに過ぎず」と紹介されており、現在でも正確な場所・構造は未確認である。この摩耶山城の紹介は、補充用紙のみで、本紙には天上寺周辺に赤あった松円心(則村)とその子(則祐)親子の供養塔の部分で若干紹介される程度であった。可能性としては、今回の印刷直後に、補足すべきとして配布・販売直前に貼り付けられたか、あるいは後述する2枚目が発行当初の1925(大正14)年ではなく、早くとも1928(昭和3)年以降に貼り付けられたものと考えられることから、この摩耶山城址の1枚目もその時に貼られたかのいずれかと推測される。
摩耶山案内12(案内3)
大阪方面よりの順路、明石方面よりの順路として、「鉄道(省線)」(国鉄)・阪神・阪急・兵電(兵庫電気軌道)とそれぞれ記されているが、基本的に乗合自動車の起点となる上筒井駅に向かう経路となっている。
鉄道(省線):三ノ宮(現・元町)→市電「元町一丁目」→上筒井
阪神:神戸瀧道(滝道)→市電→上筒井
阪急:上筒井
兵電:兵庫(現・JR兵庫駅)→市電→上筒井
摩耶山案内13(案内 補充用紙2)
補充用紙の2枚目は、ケーブル乗車賃・連絡自動車賃である。こちらは、1枚目の摩耶山城址と異なり、これらは本紙にも記載されているが、ケーブル乗車賃・連絡自動車賃の料金等は以下のように異なっている。
ケーブル乗車賃
本紙 補充用紙
普通片道券:大人22銭 小人11銭→大人25銭 小人12銭
普通往復券:大人40銭 小人20銭→大人40銭 小人20銭
連絡自動車賃
普通片道券:大人20銭 小人10銭→大人20銭 小人10銭
ケーブル会社の社史によれば、ケーブル開業当初の1925(大正14)年の運賃は「大人片道22銭、往復40銭」であったが、1928(昭和3)年6月に「運賃変更大人片道25銭、往復40銭」に、1942(昭和17)9月に「運賃変更大人片道30銭」と変更されている(年譜)。よって、本紙の料金はケーブル開業当初の運賃に対して、補充用紙は1928(昭和3)年6月のものであり、運賃改定によって、本紙の情報を更新する必要から、補充用紙が新たに貼り付けられたと考えられる。それは、1925(大正14)年発行のこの摩耶山案内が、1928(昭和3)年以後も配布・販売されていたことを示唆している。ケーブル会社は、開業から昭和初期にかけて複数のリーフレットを発行している(当ブログでもその一部を紹介)。そのため、各リーフレットの配布・販売期間は1シーズン程度の短期間であったと考えていたが、以上の状況から、意外に長かったのかもしれない。特に今回の摩耶山案内やマヤカン竣工直後の案内については、それ以後のリーフレットより良質の紙を使用し、装丁がしっかりしているので、発行後数年間程度は使用されたと推測される。なお先の吉田初三郎データベースに掲示されている『摩耶山案内』にも同じ補充用紙2枚が貼り付けれられている。
摩耶山案内14(裏面)
摩耶山案内15(表紙・裏面)
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摩耶観光ホテルについて54(資料51)
http://nk8513.exblog.jp/28611025/
2021-05-23T01:48:00+09:00
2022-09-01T17:01:07+09:00
2021-05-23T01:48:57+09:00
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未分類
「秋のメモ」阪神電気鉄道株式会社、1935(昭和10)年頃
まや山温泉
秋のメモ 表紙
阪神電鉄発行の観光リーフレット。タイトルの通り、秋季の沿線行楽ガイドであり、表紙には紅葉を思わせる木の葉の下を、杖を持ったハイカーが歩くシルエットが描かれている。この中にマヤカンが記載されている。発行年は未確認だが、記載された情報から第二次大戦前の1935(昭和10)年頃と推測される。
秋のメモ1
ここで取り上げられている場所・施設等は以下の通りであるが、六甲山と阪神パークでスペースの約2/3を占め、摩耶山など残りが1/3程度となっている。当然のことながら、阪神の直営施設、あるいは沿線にある名所名物等を紹介している。
1六甲山
六甲ケーブル(1932(昭和7)年開通)高山植物園(1933(昭和8)年開園)・山上遊園地(ケーブルと同時期に整備)・
山上遊覧バス(1932(昭和7)年運行開始)・東六甲紅葉渓極楽渓など
2摩耶山:天上寺・まや山温泉ホテル(後述)
3甲子園室内プール
甲子園のプールといえば、後述する阪神パークの西側(現・西宮市浜甲子園1丁目)に1928(昭和3)年に開園した浜甲子園プールがあったが、これは野外のプールであった。ここにある室内プールとは、甲子園球場の東側スタンド(3塁側アルプススタンド)の下に1932(昭和7)年に作られたものであった。参考としたブログによると、「プール内は全面モザイクタイル張り」で「室内の気温は26度、水温は25度に保たれ」、「500人収容の観覧席と夜間照明も完備され、午後1時~5時までは一般公開、午後6時以降は甲子園室内水泳クラブの会員制で運営」されたという。第二次大戦後は閉鎖されていたが、1978(昭和53)年から室内練習場に改造され、現在に至っている。
4松茸狩:六甲山・打出山
打出山は、阪神打出駅付近と推測されるが、正確な場所はよくわからない。昭和初期の地形図を確認すると、阪神線より北側の国鉄(現・JR神戸線)や阪急神戸線付近まで市街地化しつつあるので、少なくとも阪急より北側の地域(住宅地開発前は主に山林)を指すと思われる。
5廣田山の萩(廣田神社)
廣田神社後方にある廣田山は、現在「コバノミツバツツジ群落」として兵庫県指定天然記念物となっているが、萩については廣田神社のホームページなどで特に言及されていない。
6武庫川遊園
阪神武庫川駅周辺に1926(大正15)年から1961(昭和36)年まで存在した施設で、桜、しじみ狩り・ホタル・川遊び・月見などで知られていた。写真にはここに隣接する鳴尾地区のいちじく園が確認される。同地区は阪神開通直後からいちご狩りで有名であったようだが、いちじくのようないちご以外の作物の観光農園も存在していたのだろう。
7海釣り 東濱~西宮
東濱は現在の西宮市東浜町(東に東川が流れる)付近と思われるが、西宮とさほど距離が離れていないので、あるいは別の場所を指している可能性もある。
8阪神パーク(後述)
秋のメモ2
秋のメモ3
阪神パークは1929(昭和4)年に浜甲子園(現・浜甲子園運動公園付近)に甲子園娯楽場として開園し、32年に阪神パークに改称された。第二次大戦中に閉鎖され、戦後1950(昭和25)年に場所を甲子園球場南東側の場所に移転・再開された。2003(平成15)年に閉園し、現在その敷地は商業施設であるららぽーと甲子園となっている。
まや山温泉
摩耶山については最初に天上寺が記載されるが、残りの大半はマヤカン(摩耶山温泉ホテル)の紹介となっている。「モダンマヤ山」という名称は奇妙な表現に感じるが、当時は山中に近代的な施設が整備され、先進的な新しい観光名所として注目されていたと考えられる。ホテル宿泊・休憩料金は、「宿料 三円 四円 休憩料 一円半 二円」となっているが、これはケーブル会社発行のリーフレット(①・②・③・④・⑤・⑥)にある「B室」の料金と思われる(料金的にはA室・B室があり、前者のほうが高額となっているが、部屋の詳細は不明)。写真は、以前紹介した阪神電車の社史に掲載されたベビーゴルフ場を前面にしたマヤカンであるが、左端にゴルフをしている人物が確認できることから、別の写真と判断される。
※リーフレットの紹介文
摩耶ケーブルで
佛母摩耶夫人を祀る名刹天上寺に集まる偉大なる信仰は霊山摩耶として名高く、ケーブル直営の四層の白亜楼壮大なるまや山温泉の眺望とホテル食堂公演場等の完備せる設備はモダンマヤ山として御家族連にも又御団体にも好適です
御便利な連絡券(阪神、バス、ケーブル共)
大阪より 片道六十銭 往復一円(小児半額)
入浴料 大人十銭 小児五銭 家族風呂 大人五十銭 小児二十五銭
ホテル宿料 三円 四円 休憩料 一円半 二円
秋のメモ 裏面
参考文献
「阪神間モダニズム」展実行委員会 編『阪神間モダニズム 六甲山麓に花開いた文化、明治末期-昭和15年の軌跡』淡交社、1997
阪神電気鉄道株式会社臨時社史編纂室編『輸送奉仕の50年』阪神電気鉄道株式会社、1955
六甲摩耶鉄道株式会社社史編集委員会編『六甲山とともに五十年 六甲ケーブル開業50年史』六甲摩耶鉄道株式会社、1982
阪神甲子園球場 甲子園歴史館 スタッフブログ:http://koshien-stadium.tblog.jp/?eid=166525]]>
摩耶観光ホテルについて53(資料50)
http://nk8513.exblog.jp/27996150/
2020-03-07T18:34:00+09:00
2022-09-01T17:01:07+09:00
2020-03-07T18:34:07+09:00
nk8513
未分類
「摩耶山」など(日本国有鉄道編集「旅行画報 トラベルグラフ」No.169、1967(昭和42)年12月)
トラベルグラフは国鉄が1951年から1985年まで発行していた旅行雑誌。内容のメインは、各号ごとの特定地域・テーマの特集であるが、グラフや画報という名称の通り、写真を多く使用する(ただし現在から見ると特に多いとは感じられないが…)。また読者から投稿された観光地の写真を掲載するページもあり、写真雑誌的な性格もある。今回取り上げたのは、マヤカンが摩耶観光ホテルとして営業していた頃(厳密には閉鎖直後の可能性もあり、後述)の六甲山や神戸を特集号である。マヤカンが含まれる摩耶山については口絵部分と本文29ページに掲載されており、写真および文章からマヤカンが確認される。
摩耶山 Mt.MAYA(口絵部分)
摩耶山(698㍍)へは、急こう配のケーブルと原始林をひとまたぎしてロープウェイで登れ、山上からは阪神の市街と神戸港が一望され、夜景がすばらしい。散布の原始林に包まれて仏母摩耶夫人をまつる忉利天上寺がある。(口絵の説明文)
摩耶山へ一直線に登るケーブルとロープウェイ
この写真は、同様の構図のものが複数の資料に掲載されているもので、特に「資料紹介8 広告「国立公園まや山へ!」、神戸市交通局・まやケーブル、1961~67年頃」と同一のものと思われる。ケーブル摩耶駅右下にマヤカンが確認されるが、これは摩耶観光ホテルとして1960(昭和35)年頃に増築改装が施される前の形態となっている。したがってこの写真は、「まやケーブル遊園地」にバンガローや観覧車が設置された直後の1957~58(昭和32~33)年頃に撮影されたと推測され、今回のトラベルグラフ発行の10年前のものということになる。
きらめく神戸の市街地と港の灯・灯・摩耶山から
摩耶山の山腹に忉利天上寺
広告:国立公園周遊指定地 まや山(まやケーブル)
摩耶山・摩耶山天上寺など(本文部分)
本文の摩耶山にはケーブル・ロープウェーを乗って摩耶山に登っていく順に名所や施設が記されている。マヤカンは「まや観光ホテル」という表記になっている。
奥摩耶遊園地からロープウェイと摩耶山天上寺・神戸港を見下ろす
トラベルグラフ表紙
トラベルグラフの表紙は、神戸の海岸通から元町駅、北野方面、背後の六甲山が映る構図で、おそらくポートタワーから撮影されたものと思われる。手前の小型作業船がひしめく船溜まりはその後埋め立てられ、現在はメリケンパークの一部となっている。背後の高架道路は1966(昭和41)年10月に開通した阪神高速3号神戸線、その後ろにいくつかの近代建築物が確認される。このうち、左から2棟目の建物は現存する「海岸ビルヂング」(1911(明治44)年 竣工)である。国鉄高架線の右手奥にドーム屋根の建物が確認できるが、これは1980年頃まで営業していたキャバレー「新世紀」(参考サイト:A・B・C、跡地は現在、1988(昭和63)年から営業を開始した東急ハンズ三宮店)と思われる。
市街地の後ろの六甲山の山並みは、斜面がむき出しになっている部分が散見されるが、おそらくこれらは1967(昭和42)年7月に発生した「昭和42年7月豪雨」の際に崩落した部分と推測される。今回紹介したトラベルグラフの発行は豪雨から5ヶ月後であり、本文に災害に関する記載はないものの、ここでの神戸特集は豪雨被害からの復旧を果たしていることを示そうとしているとも感じられる。
ただしマヤカンに関して、通説では67年7月の豪雨で被害を受けて摩耶観光ホテルとしての営業を停止したことになっているが、今回の記事には「まや観光ホテル」として記載されている。単純に確認していなかっただけなのかもしれないが、災害直後という状況を考慮すると、ある程度はチェックしたのではないかとも思われる。以前紹介した資料のうち、絵はがきやケーブル・ロープウェーの乗車券なども、ホテルの営業停止後に発行・使用されたと考えられ、また地元・灘区の方のツイッターでも1970(昭和45)年にマヤカンでの結構披露宴に行ったとの証言も確認される。これらのことから、摩耶観光ホテルの営業停止は1970年代前半に下る可能性が改めてクローズアップされる。マヤカンの歴史についての基本参考文献は『兵庫の素顔』の「軍艦ホテル」であり、1967年の営業停止もこれに依拠している。しかし、アールデコ様式をアールヌーボー様式としたり、開業年を「昭和七年春」とするが実際は昭和4年11月であったりと、不正確な記述も散見されており、この資料のみでマヤカンの歴史を固定化する脆弱性を感じさせる。
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摩耶観光ホテルについて52(資料49)
http://nk8513.exblog.jp/27526581/
2019-03-28T16:05:00+09:00
2020-03-07T17:48:46+09:00
2019-03-28T16:05:53+09:00
nk8513
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阪神電鉄の社史に掲載されたマヤカン。社史は第二次大戦後で、かつマヤカンが摩耶観光ホテルとして再デビューする1961(昭和36)年より前の1955(昭和30)年の出版。したがって当時、マヤカンは閉鎖されていたが、写真はタイトルの「開設当時」通り、マヤカンが摩耶山温泉ホテルとして開業した直後に撮影されたものである。以前から参照しているケーブル会社の社史(『六甲山とともに五十年』、1982(昭和57)年)にも、同一の写真が「開設当時(昭和4年11月)」というタイトルで掲載されており、マヤカンの開業時期(1929(昭和4)年11月16日仮営業開始)と一致している。ただし手前に見える「ベビーゴルフ場」の存在から、撮影時期は1931(昭和6)年5月以降とも考えられる(後述)。
開設当時の摩耶山温泉
この写真は、フリー百科事典 ウィキペディアの「摩耶観光ホテル」の項でも紹介されているが、マヤカンの古い写真として他の文献にも紹介されている。2本ある煙突の1本から煙が上がっていることから、営業中の状態と思われる。ホテル手前は整地され、芝生のようなものが植えられているように見えるが、ホテルに平行した道路も確認できる。以前から紹介している通り、ホテル下部には「野田山遊園地」が存在しており、道路は遊園地に向かう、あるいは遊園地内の遊歩道と考えられる。 マヤカン以上に注目されるのが、手前にある城郭の天守閣のミニチュアが置かれた施設である。ケーブル会社社史の年譜によれば、1931(昭和6)年の5月に「野田山遊園地内にベビーゴルフ場設置」とある。明確ではないが、6や8と表記されたポールのようなものがあることから、やはりゴルフ場的な施設と思われる。よって、この写真は、この時期以後に撮影されたとも考えられる。このゴルフ場は、以前紹介した絵はがきや神戸市垂水区にある「絵葉書資料館」所蔵の絵はがき:Maya Park 摩耶遊園地周辺 ベビーゴルフ 神戸港観艦式遠望でも確認される。
ただし、以前存在した「六甲ヒルトップギャラリー」のホームページ上で公開されていた絵はがきでは、同じ場所で子供達が足漕ぎの自動車を漕ぐ光景が撮られている。これと同じ絵はがきが絵葉書資料館に所蔵(Maya Hotel 足漕ぎ自動車 摩耶観光ホテル 昭和11年頃)されているが、このタイトルが「足漕ぎ自動車 摩耶観光ホテル 昭和11年頃」とされている。マヤカンを第二次大戦後の名称である摩耶観光ホテルを使用していることから、このタイトルは絵葉書資料館が独自に付与したものと思われるが、昭和11年頃の根拠は確認できない(最初に紹介した絵葉書資料館の絵はがきのタイトル「摩耶遊園地周辺 ベビーゴルフ 神戸港観艦式遠望」にある観艦式(神戸沖では1930(昭和5)年10月・1933(昭和8)年8月・1936(昭和11)年10月に実施)を考慮?)。ケーブル会社の社史でも特に何も記載されていないが、1933(昭和8)年7月に「野田山遊園地内(摩耶山温泉前面)に植樹、猿舎、運動具の新設、道路の増設完成」とあり、あるいはこの時期に施設が変更されたとも推測される。
以下は、マヤカンの写真とともに摩耶山関連で掲載されていたもの。また摩耶山に関しては、次のように記載されている。ケーブルの復活(1955(昭和30)年5月)直前の状況とわかる。
社業の足あと(略史) 七 戦後経営の十カ年(46〜47ページ) 摩耶ケーブルの復活 戦時中鉄材供給で設備が撤去されていた摩耶ケーブルは、当社の傍系事業として十一年ぶりに復活することとなった。このケーブルは山上の古刹忉利天上寺への参詣人誘致をめざし、遠く大正十四年一月摩耶鋼索鉄道株式会社によって開業されたわが国ケーブル界の古顔である。ふもとの高尾駅から海抜四百五十二メートルの摩耶駅まで延長九百三十七メートル、勾配の急なことはその頃東洋一であり、世界でも四番目であった。昭和四年には摩耶駅付近に四階建の摩耶山温泉を開設してホテルや遊園施設をしたが、ケーブルは昭和十九年二月運転休止を命ぜられて晩秋から撤去に着手し、レールその他の資材を高尾駅構内に集積したが、活用もされぬまま終戦となった。たまたま神戸市営をもって山嶺の掬星台よりケーブル山上駅付近にいたる八百十七メートルにロープウェイを架設することとなり、本年六月頃開通を目標に進工中であるが、同社においてもこれに呼応してケーブルを復活することになり、すでに昨二十九年十月工事に着手した。ロープウェイよりも一足お先に四月下旬頃開通の見込みであるが、この両者が相前後して動き出したら、掬星台よりさらに山上バスを通じ六甲ケーブルと連絡するので、一時間余りで摩耶六甲周遊が可能になり、さらに山上ホテルその他の諸施設も神戸市と連携して完備することとなっているから、新しい観光施設として戦前とは面目を一新するだろう。
山上より港都神戸の東部を望む
摩耶ケーブル
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摩耶観光ホテルについて51(資料48)
http://nk8513.exblog.jp/27036407/
2018-08-07T11:35:00+09:00
2019-03-28T16:04:52+09:00
2018-08-07T11:35:11+09:00
nk8513
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ケーブル会社による絵はがき。発行年は不明だが、マヤカンが摩耶山温泉ホテルとして竣工した直後の1929年(昭和4)の年末から翌30年(昭和5)頃かとも推測される。ネットの市場でもよく登場し、また一部の神戸・六甲関連の郷土史的な書籍等でも紹介されており、摩耶山・マヤカンに関心のある関係者には、比較的有名なものと思われる。ただしこの絵はがきは、現在確認できるケーブル会社の絵はがき集に含まれておらず、また天上寺やケーブルなど摩耶山関連でも、類似した油絵調の絵はがきは確認されない。加えて、今回の絵はがきと同じく書籍・ネットで確認されるものとして、マヤカンをイラスト風に描いた絵はがきも存在するが、これも他に類似したものは確認できない。よってこれらの絵はがきは、セットではなく、単独で販売されていた可能性が高いと判断される。
これらと関連するものとして、例の社史『六甲山とともに五十年』でケーブル会社の絵はがきが4枚紹介されている。いずれも摩耶山全体にケーブルや天上寺等を配したイラスト風の共通したもので、これらも単品であったと思われる(類似したものを当ブログでも紹介済み)。ただここには、最寄り駅の上筒井駅(当時の阪急神戸線終点、現・王寺公園駅西側付近)からケーブル摩耶駅へのバス路線や会社の所在地、あるいは「賀正 大正丙寅元旦」などが記されているものもあり、販売用とともに会社の営業用(贈答・配布)としての性格もあったと考えられる。
絵はがき「MAYASAN HOTEL KOBE」
構図はタイトルの通り、マヤカンが右手に大きく描かれており、中央上部に天上寺にあった多宝塔と摩耶山頂部、左下に神戸の市街地と煙をあげる船舶が配されている。当時のマヤカンはケーブル会社の直営だったため、この現実離れした大きさで存在感を示そうとしたと思われるが、一方で、肝心のケーブルの線路・駅・車両は描かれていない。これが、マヤカンのみを強調することを最初から想定した結果か、あるいは当初はケーブルなども含める予定だったが、完成したのが今回の構図で、作者の意図等を尊重して、特に修正を加えなかっただけなのか、判然としない。ちなみに、特にサインもないので、作者が誰かも確認できない。
絵はがき「MAYASAN HOTEL KOBE」(裏面)
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摩耶観光ホテルについて50(資料47)
http://nk8513.exblog.jp/26960854/
2018-07-02T21:58:00+09:00
2022-09-01T17:00:30+09:00
2018-07-02T21:58:51+09:00
nk8513
未分類
表紙カバー表
1950年代末から60年代初め頃に発行されたと思われる絵はがき集。発行元については、絵はがき裏の切手を貼る部分に「NARA OKAMURA PRINTING INDUSTRIES Co.」と記載されており、奈良県高取町にある岡村印刷工業だと思われる(後掲を参照)。マヤカンについては、ロープウェーの後景に確認されるが、摩耶観光ホテルとして再開された際に行われた増築部分は存在していない。よって、発行時期はともかく、絵はがきに使用された写真自体は、後述する状況も含めて1958年(昭和33)夏から60年(昭和35)夏頃にかけて撮影されたものと推定される。なお各絵はがきの状態から、これらは白黒写真に彩色をしたものと思われる。
絵はがき1 国立公園 摩耶山 摩耶ケーブルカー National Park Mt.Maya The cable-car to Maya.
絵はがき2 国立公園 摩耶山 摩耶山遊園地より神戸市と大阪湾を望む
National Park Mt.Maya A view of Kobe City & Osaka Bay from the Maya (recreation) ground.
ケーブル摩耶駅(現・虹の駅)西側にあった遊園地からみた眺め。海岸線は現在とは異なり、1960年代後半以降に埋め立てが行われる前の状態を確認できる。ただし、ここで注目されるのは、右の手前にある薄緑の構造物であろう。よく見ると、上部に人が乗れるような部分が2箇所あり、小型の観覧車のようなものであることがわかる。過去に何度も参照しているケーブル会社の社史『六甲山とともに五十年』(1982年(昭和57)発行)の「年譜」によれば、1958年(昭和33)7月15日に「まやケーブル遊園地に観覧車、チェンタワー等の遊戯具設備建設〈三洋遊戯機械㈱に委託経営〉」と記載されている。チェンタワーは、中心部の支柱部分が回転し、そこからチェーンでぶら下げられたブランコが回転する遊具機械であるので、ここに写っているのは、観覧車と思われる。この観覧車の存在から、今回の絵はがき集が、1958年夏以降に発行されたものと判断できる。なおチェンタワーはこの絵はがきからではわからないが、以前紹介した資料にそれらしきものを観覧車より東側で確認できる。
絵はがきの表記にある「摩耶山遊園地」は、1925年(大正14)のケーブル開通以来、整備されたもので、食堂やテント村、小型の遊具や動物小屋、そして1929年(昭和4)には、マヤカンの原型をなす摩耶山温泉ホテルも、その中に建設された。第二次大戦によるケーブルの営業休止により、マヤカンも営業を中止したが、おそらく遊園地もそのまま放置され、しばらくは荒廃していたと思われる。それが、ケーブルの運転再開および奥摩耶ロープウェー開通の1955年(昭和30)以後に再整備され、食堂・休憩所・展望台・バンガロー村などが建設された。この状況は、戦前からの遊園地の再生という目的とともに、摩耶山頂部に整備された山上遊園地に対抗する意味合いもあったと考えられる。特に山上遊園地には、後述するマウントコースターやティーカップなどの大型遊具が設置されており、今回紹介した観覧車、チェンタワーの設置は、この3年後に摩耶観光ホテルとして再オープンしたマヤカンとともに、摩耶遊園地における中核となるべき遊具であったと推測される。ただし、これらは1970年以降の資料には確認されず、60年代末には撤去されたと思われる。マヤカン同様に短命であったのかもしれない。
絵はがき3 国立公園 摩耶山 摩耶ロープウェー National Park Mt.Maya The rope-way to Maya.
ロープウェー背後にマヤカンが確認できる。前述のように増築前の状態であり、撮影時期は摩耶観光ホテルとして再生する以前と判断できる。
絵はがき4 国立公園 摩耶山 摩耶山上遊園地と展望台虹の懸橋 National Park Mt.Maya The Maya ground and observation atand.
絵はがきの英語表記にある「atand」はstandの誤記と思われる(後掲の絵はがき裏面を参照)。
絵はがき5 国立公園 摩耶山 摩耶山上遊園地 National Park Mt.Maya Recreation ground of the top of Maya.
以前の絵はがき集等で登場したマウントコースターが確認できる。右側には、鉄骨で組んだコースのカーブ部分が、左側に「マウントコースター」と表記された乗降場と思しき建物等が確認される。山頂部の起伏をうまく利用した施設であったことが窺える。
絵はがき6 国立公園 摩耶山 摩耶天上寺 National Park Mt.Maya A temple of Maya Tenjyo-tera.
絵はがき7 国立公園 摩耶山 摩耶山よりの百万ドル夜景 National Park Mt.Maya A beautiful view from the top of Maya at night.
絵はがき8 国立公園 摩耶山 奥摩耶放牧場 National Park Mt.Maya The pasture ground on Oku-maya.
絵はがきのタイトルは「奥摩耶放牧場」となっているが、現在の六甲山牧場と思われる。
表紙カバーの内側に記載された地図
これとほぼ同一の地図が、以前紹介した絵はがき集にも記載されている(ただし、大丸神戸店で販売されていたと思われる表記があった)。その絵はがき集には発行元を示唆するものは確認できなかったが、この図から今回と同じ奈良の岡村印刷工業の発行とも考えられる。
表紙カバー裏
はがき裏面
切手を貼る部分に菱形に岡村印刷工業と思われるアルファベット表記がある。また「2」と記載された菱形のマークは、同社の社章と思われる。
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摩耶観光ホテルについて49(資料46)
http://nk8513.exblog.jp/26854110/
2018-06-03T11:50:00+09:00
2018-08-06T08:49:46+09:00
2018-06-03T11:50:42+09:00
nk8513
未分類
神戸・異国情緒における摩耶観光ホテル・摩耶ケーブル
雑誌『an・an』の記事「神戸・異国情緒」に登場したマヤカンと摩耶ケーブル。年代的には、摩耶学生センターとなっていたと思われるが、紹介文には摩耶観光ホテルと記されている。渡り廊下付近のみが断片的に切り取られた小さい写真であるが、多少傷んでいる様子が確認できる(ただし最近よりははるかに状態は良いと思われるが…)。
神戸・異国情緒1「異人館」(148-149ページ)
さてこの記事を紹介するにあたり、必要な基礎的情報を長くなるが以下に記す。
雑誌『an・an』は1970年3月に創刊された。当時は既存の雑誌とは異なる斬新な内容(上野千鶴子ほか参考文献参照)で話題を集めたようであるが、その中で1971年頃から現在では考えられない特集記事が組まれた。それは、京都や京都に準じる風格を備えた小京都に位置づけられる地方都市、あるいは伝統的生活文化が残っている農山漁村を紹介する内容で、ガイドブック的に使用できるほど詳細なものも少なくなかった。こうした旅行案内的な特集記事が、1980年頃までほぼ毎号掲載されていた。さらに同種の記事は、やはり同時期に創刊された『non-no』(集英社、1971年(昭和46)~)でも毎号組まれることになった。
これらの背景として、an・anやnon-noの読者と考えられる若い女性による旅行へのニーズ、および高度経済長期を経て、江戸時代的な伝統文化や建物、たたずまい等の希少性が高まったこと等があげられる。これらは、同時期に国鉄よって行われたディスカバー・ジャパン・キャンペーン(1970年(昭和45)10月~76年(昭和51)12月)のコンセプト(旅の向こうに美しい(昔ながらの)日本を発見する)や若い女性を主な想定客としている点などに典型的にあらわれている。an・anやnon-noの旅行特集記事は、ディスカバー・ジャパンとは直接関係していなかったが、通底する内容であったために、ディスカバー・ジャパンが注目される大きな助けとなった。それは、小京都に群れ集まる女性の旅行者を、両雑誌名をもじってアンノン族と呼ばれたことから確認される。
さて上記のように、1970年代では小京都的な場所が新たな観光地として人気を博した。an・an・non-noの特集記事の大半もそうした場所が中心であったが、これとは異なる方向性の場所を取り上げた記事も存在した。それは、神戸や横浜、長崎、函館、あるいは自然や広大な農村景観に注目した北海道などで、いずれも非日本的、非伝統的イメージという点で共通していた。特に今回取り上げた神戸などは、近代初頭から欧米諸国に開かれた港町で、欧米流の文化・習慣や建築物がいち早く導入され、それらが残存する場所として、おそらくは現実以上にエキゾチックなイメージが強調されていた。この当時は、例えば1ドル=360円の固定相場が1971年(昭和46)8月まで実施されていたように、外貨と比較して円が安く、外国旅行が現在の水準よりはるかに高価なものであった。したがって、行きたくても行けないアメリカやヨーロッパの代替地として、この神戸のような、少しでも異国情緒を感じさせる国内の場所が注目されていたのである。
ちなみに異人館が多く残る神戸の北野・山本通周辺を特に有名にしたNHKの朝のドラマ『風見鶏』は、1977年(昭和52)10月から78年(昭和53)4月まで放映されており、今回の特集記事の後である。神戸の異人館に対する『風見鶏』のインパクトは、大変有名であるが、この記事のように、それ以前からエキゾチックなイメージは高まっていたと思われる。
なお今回の特集記事は、ガイドブックではなく、エキゾチックイメージを構成演出しつつ、若干の名所や飲食店の情報とともに、服やグッズなどを紹介するというカタログ的な記事ともなっている。この当時は、京都や小京都などをロケ地にして、こうしたカタログ記事を作成することも少なくなった。
神戸・異国情緒2「北野付近」(150-151ページ)
右側の異人館は、前の『風見鶏』に登場し、現在は重要文化財に指定されている「風見鶏の舘」(旧トーマス邸)である。当時は中華同文学校(中国系の学校)の寮となっていた。左側は、神戸電鉄の社長を努めた小林秀雄夫妻で、現在では「萌黄の館」(旧シャープ邸)と呼ばれる異人館に居住していた。
神戸・異国情緒3「散歩道」(152-153ページ)
神戸・異国情緒4「港」(155ページ)
ポートターミナルのことが紹介されているが、ランドマークとなるポートタワーは文中で紹介されているものの、写真は掲載されていない。
神戸・異国情緒5「塩屋」(156-57ページ)
ここに登場する「シーサイドクラブ・パレス塩屋」は、現在閉店しているようである(久保田洋一のブログ 明石大橋から塩屋まで歩きました)。
神戸・異国情緒6「六甲」(158-59ページ)
六甲とはいいつつも、羊が点在する六甲山牧場と摩耶観光ホテル&ケーブルがメインである。ただし、摩耶ケーブルの上のモデルが乗っているのは、形状からして六甲ケーブルだと思われる。
神戸・異国情緒6「六甲」の摩耶観光ホテル
「摩耶ケーブルの終点にある摩耶観光ホテルは現在使われていない」と記している点は注目される。実際には、簡易宿泊所である摩耶学生センターの営業を開始していたと考えられるが、それは地元の大学生などに限定されたインフォーマルな形態だったとも推測される。写真からは、確かに荒れた雰囲気が感じられるが、「アンダルシアの古城にでもいるようだ」と評している。
神戸・異国情緒7「ホテル」(161ページ)
ここに登場する「雅叙園ホテル」は神戸高速鉄道 花隈駅北西にあった異人館を活用したホテルだった。阪神淡路大震災で被害を受けたようで、現在跡地にはマンションが建っている(晴れのち晴れ 神戸雅叙園ホテル)。
神戸・異国情緒8「買物」(163ページ)
ここに登場する「オクトーバー14」は、旧中国領事館であった建物を再利用して、1990年代半ばまでは営業していたようである。現在は「坂の上の異人館」として公開されている。
神戸・異国情緒9「骨董」(165ページ)
神戸・異国情緒10「神戸肉」(166-67ページ)
ここに登場する「キングス・アームス」は、神戸の中心地・三宮を南北に通るフラワーロードの東側(東遊園地付近)にあった店舗であった。震災の影響で閉店したようである。(阿智胡地亭のShot日乗 神戸にあったパブ「キングス アームス」)
『an・an』7巻19号(通巻155)表紙
エキゾチックなイメージを演出するとはいえ、ここに提示された神戸と実際の神戸とはかなりの乖離があるようにも感じられる。それには、ここに登場する人物が、外国人(欧米人)がメインとなっている点も影響している。彼らの一部は、神戸在住の者かもしれないが、大半はモデルではないかと思われる。少々演出が過ぎている点は否めない。
参考文献
赤木洋一『「アンアン」1970』平凡社、2007.1
上野千鶴子「女性誌ニュージャーナリズムの同世代史」(『「私」探しゲーム 欲望私民社会論 』筑摩書房)、1987(増補版1992.6・原典は『朝日ジャーナル』1984年11月23日号)
難波功士『族の系譜学 ユース・サブカルチャーズの戦後史』青弓社、2007.6
原田 ひとみ「アンアン"ノンノの旅情報 マスメディアによるイメ-ジ操作」地理(古今書院発行の月刊誌)29-12、1984.12、p.50-57
林 真希・十代田 朗・津々見 崇「ディスカバー・ジャパン・キャンペーンの方法及び対象に関する基礎的研究」日本観光研究学会全国大会学術論文集22、2007.12、p.237-240
藤岡和賀夫『ディスカバー・ジャパン』PHP研究所、1987.12(電通により1991.11再販)
森 彰英『「ディスカバー・ジャパン」の時代 新しい旅を創造した、史上最大のキャンペーン』交通新聞社、2007.2
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摩耶観光ホテルについて48(資料45)
http://nk8513.exblog.jp/26756075/
2018-05-05T08:34:00+09:00
2018-06-29T20:22:36+09:00
2018-05-05T08:34:54+09:00
nk8513
未分類
国立公園まや山 表紙
ケーブル会社による1950年後半(昭和30年代前半)のリーフレット。タイトルから摩耶山が六甲山とともに瀬戸内国立公園に編入された1955年(昭和30)以降に作成されたと推定される一方、1961年(昭和36)に再オープンした摩耶観光ホテルがまったく登場していてない。またここに記載された摩耶山の諸施設のうち、年代的に新しい「まやケーブル展望台」が1958年(昭和33)8月に建設されている。よってよってこれは、1958から60年頃に発行されたものと考えられる。表紙は、摩耶山あるいは六甲山と思われる山塊を左右に配し、その中央(谷間)に夜景?の市街地、その上部に海、さらにおそらくは淡路島がシンプル化されて描かれている。そこにケーブル、ロープウェー、天上寺を示すと思われる多宝塔や葵の紋(徳川氏から庇護されていた)の他、港町神戸を示す船のイラストが配されている。
国立公園まや山1
摩耶山・夜景・ケーブル展望台などが紹介されている。ここに添付されている写真のうち、下部は後で登場する奥摩耶山荘のものと思われる(同じ構図が以前紹介した絵はがき集に確認)。右側のケーブルの写真では、樹木が繁茂しており、第二次大戦前の禿げ山同然であった状況から時間の経過を感じさせる。背景のイラストには、ケーブルおよび1955年(昭和30)7月に開業した奥摩耶ロープウェーや天上寺が記載され、戦後の状況を示している。
ここで特に注目されるのは、「千万弗の夜景」「千万弗の美観」と記されている夜景である。以前に紹介した通り、美しい夜景に対して、しばしば「百万ドルの夜景」と表されているが、この理由については諸説が存在して判然としない。ただし摩耶山の夜景については、ケーブル会社の社史に六甲山からの夜景が百万ドルと表されていたことに対して、同地のそれはより美しいとのことで千万ドルになったと記載されている。六甲山関連の資料を確認していないが、摩耶山については第2次大戦前のリーフレット等には、夜景を紹介する記載はない。よって、六甲山との比較等の真偽はともかく、摩耶山の夜景を千万ドルと形容されるようになったのは、このリーフレットが発行された1950年代後半(昭和30年代前半)以降と判断される。
次に「まやケーブル展望台」(社史によれば1958年(昭和33)8月建設)の部分には、「無料休憩所・売店」(同1957年(昭和32)6月建設)・「バンガロー」(同1957年(昭和32)7月建設)の施設が記載されている。ただし同所に「旅舘」と記載されているものについては、社史からは確認できない。以前紹介した住宅地図では1956・58年版(昭和31・33)に「展望台」の南側に「摩耶旅館」が確認されるが、ここにある「旅舘」と同一かは不明である。
国立公園まや山2
こまかい点だが、左側の「高山大神」にある「アベック連の参詣が多い」の表現は、昭和的な時代を感じさせる。
国立公園まや山3
ロープウェーと同時期に整備された「奥まや遊園地」には「ムーンロケット・渦巻カー・マウントコースター等」が記載され、明らかに現在の自然公園と異なる状態であったことを確認される。なお右側の地図では「観光牧場」(現・六甲山牧場)から奥摩耶(山頂地区)への自動車道路(奥摩耶ドライブウェー)が記載されている。
国立公園まや山4
こうした形態のリーフレットは、これまで第二次大戦前限定と判断していたが、今回紹介したように、戦後になっても同様のものが発行されていたことを確認した。ただし、これが限定的に発行されたものか、あるいは複数のものが継続的に発行されたかは未確認である。同時に絵はがき集も発行されているが、社史によれば、戦後の摩耶ケーブルは運輸収入こそ増加していくが、旅客人員は徐々に減少し(1955年(昭和30)50万人→1965年(昭和40)42万人→1975年(昭和50)29万人)、1975年(昭和50)10月には六甲ケーブルと合併している。これは明らかに、ケーブル会社、もしくは摩耶山観光の低落による再編と思われる。ケーブル会社独自のリーフレットや絵はがきが戦前ほど確認できないこともこうした状況によるものとも推測される。
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摩耶観光ホテルについて47(資料44)
http://nk8513.exblog.jp/23871449/
2017-02-20T17:18:00+09:00
2018-06-18T00:42:28+09:00
2017-02-20T17:18:30+09:00
nk8513
未分類
神戸周辺のタウン情報誌『月刊神戸っ子』に掲載された摩耶観光ホテルの広告。筆者の所蔵は以前に紹介したものだが、「神戸っ子アーカイブ」でさらに6つの広告を確認できた。これらは、1963(昭和38)年中に集中的に掲載された一方、それ以外の時期には確認できない。以下では、筆者蔵の広告のみ再掲し、他の6点は「神戸っ子アーカイブ」で各自で確認していただきたいが、広告の内容等についてはここで紹介する。
広告1 摩耶観光ホテルの広告(『月刊神戸っ子』23号、1963(昭和38)年2月、67ページ)
マヤカンの写真が上下に2枚提示され、上は南側から見上げた構図、下は建て増しされた5階部分から南の神戸市街地を見下ろす構図で、右に南に張り出した部分が大きく写されて、高い尾根筋に立地していることを示している。なお上の写真では4階と5階部分の間に看板らしき物が確認できる。何と書かれているかは不鮮明でわからないが、これまで紹介してきた資料では確認されないものである。このため、この時期に度々行われていたイベント用の臨時の看板ではないかとも考えられる。
次に写真の下には「国立公園 摩耶観光ホテル」と題されて、現在から見るとややオーバーな表現でホテルを宣伝している。国立公園は1956(昭和31)年5月に摩耶山を含めた六甲山地が瀬戸内国立公園(1934(昭和9)年3月指定)に編入指定されたことに関連したもので、当時はそれが六甲・摩耶地域の観光地としてのブランドであった(現在の「世界遺産」に類似)。1950年代後半~70年代にかけての絵はがき集などでも「国立公園 六甲山」のようなタイトルが散見され、摩耶山でも以前紹介した資料にあるように「国立公園まや山へ!」、「国立公園周遊指定地 摩耶山」、「国立公園 摩耶山」「国立公園 まや山」「国立公園 奥摩耶」、「国立公園 周遊指定地 摩耶山」などと、国立公園が多様されている。今回は、マヤカンというホテル施設に付随している点は独特だが、厳密にはマヤカンが国立公園の区域内にあるだけである。また「都心の塵埃をさけて、御散策にパーティに、御宿泊にお気軽にお越しください」との表現は、第二次大戦前の温泉を重視した「摩耶山温泉ホテル」ではなく、宴会・パーティーを中心にした飲食主体の「摩耶観光ホテル」の特徴を示唆している。
広告2 摩耶観光ホテルの広告(『月刊神戸っ子』24号、1963(昭和38)年3月、67ページ)
広告の構図は前号と同様で、上下2枚の写真の下に宣伝文が記されている。上の写真はマヤカンを南東側から見た構図であるが、これは第二次大戦前の絵はがき等で確認される一方、摩耶観光ホテル時代ではこれまで紹介してきた資料では見られない。これは戦前(少なくとも1938(昭和13)年の阪神大水害以前)は、この周辺が以前紹介した「野田山遊園地」となっていたが、戦後はまったく使用されず山林化していたという状況が関係していると思われる。しかし、この写真では不鮮明ながら樹木はまだマヤカンを隠してしまうほどに繁茂していなかった様子をうかがうことができる。あるいはマヤカンのリニュアル工事に際して、一部伐採などが行われたのかもしれない。いずれにしろ、この時期としては珍しい構図だが、戦前の同じアングルの写真と比較すると、5階部分が増設されて形態が変化した様子がよく確認できる。
下の写真は大ホールを正面から写したものだが、不鮮明ながらテーブルや椅子が配置されているが、全体的状況は戦前の時とさほど変化したように感じられない。ただ上部にソケット(小型電球が装着?)がついたコードが張られており、後述するようなパーティー時に雰囲気を出すために付属したものと思われる。
注目されるのは、写真の下に「SPRING DANCE PARTY ●春の楽しいダンスパーティえのお誘い」と題され、3月21日に行われるダンスパティーの予告が記されている点である。続けて「とき・3月21日(木)3.00ー9.00PM ところ・摩耶観光ホテル大ホール(写真下) 入場整理券・¥250 EXCELLENT 3BAND 神戸の美しい夜景をながめ、春のリズムで楽しいひとときをおすごしください。花のプリンセスの方々も参加。」と記されている。途中の「EXCELLENT 3BAND」は演奏するバンド名か、楽器か関連の音響機器か、あるいはその前にある入場整理券に関連するのか、未確認である。また「花のプリンセスの方々も参加」と記されているが、これも単にサクラ的な女性を指すのか。あるいは宝塚歌劇のような芸能者を指すのかもわからない。
広告3 摩耶観光ホテルの広告(『月刊神戸っ子』25号、1963(昭和38)年4月、69ページ)
この広告のみ、写真が掲載されていない。代わりに「HAWAIIAN NIGHT」と左に記されたウクレレ(もしくはギター)のイラストが中央に配されている。その上には「ハワイアンとダンスパーティーの夕べ・5月4日(土)午後4時より 出演/バッキー白片とアロハハワイアンズ」、下には「ところ/まや観光ホテル大ホール 主催/まや観光ホテル―¥350 新聞会館・阪急・阪神プレイガイド まやケーブル・まや観光ホテルで発売中」と記されている。ここに確認されるバッキー白片は、明治末にハワイで生まれた日系二世で、昭和初期に帰化してハワイアンのミュージシャンとして活躍した人物で、このイベントが実際された当時は、神戸や関西限定ではなく、日本全国に知られた著名なミュージシャンであったようである。ただこのイベントが実際どの程度盛況であったかは未確認であるが、当時のマヤカンでは1~2ヶ月に1回程度にこうしたイベント・パーティーを開催できていたとすれば、ある程度の人出はあったと考えられる。なおこのイベントについては、以前紹介した摩耶観光ホテルが作成した宣伝カードにも同様のことが記されているが、ここでは開演時間が午後5時となっている。
広告4 摩耶観光ホテルの広告(『月刊神戸っ子』28号、1963(昭和38)年7月、70ページ)
この広告のみ、1ページ全面を使用している(他はすべて1/2ページ)。写真は上部に夜のマヤカンおよびケーブルが写されている。マヤカンのついては、室内の明かりだけではなく、屋上部分(おそらくは屋上ビアガーデン)の電飾部分もあって暗い山中に目立つ存在感を呈している。ただしケーブルの線路部分が明るく点灯しているが、これはシャッターを長く開いた状態で撮影された結果、ケーブルカーの車内の明かりがこのように線路沿い全体に光って見えていると思われる。したがって、見た目より明るく写されたものであり、マヤカンのこうした存在感が麓の市街地からこのまま見えていたとは必ずしも考えられない。とはいえ、夜のマヤカンを撮影したものは他に確認できず、この点の資料的価値は大きい。
下には「HAWAIIAN & DANCE PARTY 大橋節夫とハニーアィランダース とき/8月3日午後5時より ところ/摩耶観光ホテル大ホール」とシンプルに前回と同様のハワイアンイベントを宣伝を記している(この年の8月3日は土曜日)。大橋節夫は前のバッキー白片と同様に、昭和に活躍したハワイアンミュージシャンであり、やはり当時はかなりの知名度があったと思われる。また右下には神戸三宮方面からのアクセスを示した略図が描かれている。
広告5 摩耶観光ホテルの広告(『月刊神戸っ子』29号、1963(昭和38)年8月、70ページ)
ここで使用されている写真は、前回使用した写真のうち、マヤカン部分をクローズアップしたものと思われる。そこに「夏の涼風・・・・・・レヂャーホテル」とだけ記されている。当時のマヤカンにとって、夏季の売りは市街地より涼しい屋上のビアガーデンだったのであろう。それを感じさせる広告となっている。
広告6 摩耶観光ホテルの広告(『月刊神戸っ子』31号、1963(昭和38)年10月、73ページ)
ここで使用されている写真は、3月号と同じ南東側から見たものであるが、印刷された紙が白い分こちらの方が状況を確認しやすくなっている(3月号は赤色)。宣伝内容は「味覚と行楽の秋に・・・」と始まっているが、続けて「三宮より20分 国立公園 摩耶山へ!」、写真の下には「パーティ・クラス会・運動会・歓送迎会その他ご人数・ご予算のご相談に応じます 楠公鍋 ¥1200~1500 まや鍋 ¥800~1200 鉄板焼 ¥300~800」と記されていて、イベント等ではなく一般的なものとなっている。ただし、まや鍋等の価格は、以前紹介した資料(A・B)にある価格と微妙に異なっており、まさに「ご人数・ご予算のご相談」によるものであったのかもしれない。なお広告下部には以前紹介した資料にもあったホテルのロゴが描かれている。
広告7 摩耶観光ホテルの広告(『月刊神戸っ子』32号、1963(昭和38)年11月、69ページ) ここで使用されている写真は、ホテル内の3階にある大食堂(ただしこの名称は摩耶山温泉ホテル時代のもので、摩耶観光ホテルでは未確認)の曲線状の窓辺(東側)にモデルの女性(不鮮明ながら欧米系と思われる)3名がたたずんでいる様子が写されている。摩耶観光ホテル時代のホテル内部の写真は、これまで未確認であり、これも非常に珍しいものといえる。
広告に上部に「お茶と音楽とダンス マヤ・カジュアルコーナー開設!」、写真の下に「*コーヒーとケーブル往復乗車券付で150¥のM.C.C.クーポン券をご利用下さい *発売先きは/まやケーブル駅 *毎週土曜日6時より、名曲によるカジュアルダンスパーティを開きます。」とあり、その下にホテルのロゴ、ホテル名等が続いている。ここでまず注目されるのが、「カジュアルコーナー開設」である。ここは以前紹介した際には、廃墟マニアの間でその美しさが知られている部屋(戦前の摩耶山温泉ホテルでは浴場)で、摩耶観光ホテルの中では大食堂の別室的位置づけとなっていたと判断していたしていたが、毎週ダンスパーティを実施するには例の部屋は少々手狭な印象が否めない。一方、この部屋と大食堂の間に、2つの部屋があり、これらがカジュアルコーナーであったのかもしれない。次に、M.C.C.クーポン券についてであるが、これは要するに、ケーブルを利用してマヤカンでコーヒーを飲むとそのクーポンが貰えるということだと思われる。M.C.C.とは1923(大正12)年に神戸で設立された水垣商店を元に1954(昭和29)年に誕生したエム・シーシー食品と思われる。マヤカンやケーブルの利用で同社のクーポンが出たということは、それらと何らかの関係性を有していたと思われるが、仔細は不明である。
以上、『月刊神戸っ子』における摩耶観光ホテルの広告を確認した。マヤカンのこの時期の資料はその営業期間の短さもあって、非常に希少である。筆者の所蔵しているものは一部に過ぎないが、折角web上に公開されていることを考慮して、あえて紹介した。]]>
摩耶観光ホテルについて46(資料43)
http://nk8513.exblog.jp/23832457/
2017-02-10T18:22:00+09:00
2018-06-03T11:54:24+09:00
2017-02-10T18:22:41+09:00
nk8513
未分類
ケーブル会社が発行した絵はがき集。構成は8枚組で、タイトル通りケーブルと天上寺を中心にしている一方、マヤカン(摩耶山温泉ホテル)は登場しない。発行年代は不明だが、マヤカンを撮影したものがないという点では、その竣工の1929(昭和4)年11月の以前に発行されたものとも考えられる。ただし絵はがき集のカバーには「昭和三年十一月下旬 単独参拝」とメモ書きされていることから、遅くともそれ以前には発行されていたものと想定される。なお絵はがきカバーの裏面には「摩耶鋼索鉄道株式会社特製」と赤字で印字され、さらに(25)という番号が記載されている。以前紹介したケーブル会社発行の絵はがき集(A・B)では、(10)や(20)と記載されていることから、同社は発行されたものから順に番号を付けていたと思われる。
表紙
表紙裏面
絵はがき1 摂津摩耶ケーブルカー急勾配の景 Ganeral View of Maya Cable Rail Kobe
路線周辺は山肌が露出していることから、撮影時期はケーブル開通直後(と考えられる。なお英文のGaneralはGeneralの誤記と思われる。
絵はがき2 摂津摩耶ケーブルカー(トンネル)の景 Mouth of Tonnel Maya Ceble Rail Line
絵はがき3 摂津摩耶ケーブルカー急勾配の景 The Cantrl Points of the Maya Cable Rail-Way at Mt.Maya Kobe
上部に展望台らしき建物が確認できる。なお英文のCantrlはCentralの誤記と思われる。
絵はがき4 摂津摩耶ケーブルカー停車場 The Summit Station of The Maya Cable Car
絵はがき5 摩耶山上ケーブル終点より見たる神戸市 A View from the Summit of the Maya Cable Car. Kobe
駅の両側は山肌がむき出しなことから、開通間もない頃に撮影されたものと思われる。完全には確認できないが、1931(昭和6)年5月に完成した「ベビーゴルフ場」となった左の崖上もまだ整備されていないように感じられる。
絵はがき6 摩耶ケーブルカー停車場より見たる神戸市 Birdeye View of Kobe, From Maya Cable Car.
西灘から神戸中心地方面を望んでいる。海上には多数の船舶が停泊している一方、神戸側の山には樹木が少なく、草山あるいは禿げ山となっている様子が確認される。六甲山地は江戸期には薪炭目的で樹木が数多く伐採され、その多くが禿げ山状態であったことが知られている。明治後期以降は植林が進められたが、この時期にはまだこうした状態も残存していたようである。参考サイト:六甲山 森林整備戦略(神戸市 建設局 防災部)
絵はがき7 摩耶山上 仁王門より天上寺に至る参詣道 A Path Leading to The Maya Temple
絵はがき8 摂津摩耶山忉利天上寺本堂 Toritenjyoji(maya temple) at Mt.Maya Kobe
絵はがき裏面
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摩耶観光ホテルについて45(資料42)
http://nk8513.exblog.jp/23461428/
2016-09-02T13:14:00+09:00
2018-06-03T11:54:24+09:00
2016-09-02T13:14:23+09:00
nk8513
未分類
まや山 全景(部分)
1972~75年頃(昭和47~50)に発行されたと思われる絵はがき集。発行は特に記載がなく不明(ケースにカラーを示す特徴的なロゴが描かれており、これが手がかりになるかもしれないが未確認)。構成は8枚だが、ケース部分を含めると実質9枚となっている。発行年については、はがき裏面の切手を貼る部分に「国内郵便¥10」と印刷されていることから、はがき送料が10円であった1972年(昭和47)2月1日から76年(昭和51)1月24日の間と推定される。ただしここに記載されている地図には、営業を停止していた、あるいは学生センターになっていたはずのマヤカンが「まや観光ホテル」として記載されている。よって、この絵はがき集より古い時期にその基礎となるものが発行されていた可能性も残されるが、一方で、以前紹介した住宅地図の状況と同様に、特に補足修正をせずに表記しただけのことかもしれない。
絵はがきケースの表紙
ケース全体
絵はがき集としては珍しく「絵はがき 8枚組 ¥120」と明確に表記されている。
ケースに記載れたイラスト地図・説明
イラスト地図は摩耶山のみならず六甲山方面も含めたものとなっている。焼失前の天上寺や後でも紹介する「千万ドル展望台」、山頂部の「国民宿舎 神戸摩耶ロッジ」等の表記から、1970年代前半の状況を示している。ただしここには前述の通り、「まや観光ホテル」も記載されているが、何度も紹介したように、この時期にはホテルではなく学生センターとなっていった時期である。
絵はがき1 国立公園・周遊指定地 まや山 全景 Entire view of National Park Mt. Maya, Kobe.
確かに全景ではあるが、摩耶山を南から撮影しており、ケーブル摩耶駅の中腹部が前面で目立つ一方、天上寺および山頂部(奥摩耶地区)が後ろに配されている。特にケーブル摩耶駅の東側にマヤカンが大きな建築物として確認できる。その形状は、明らかに摩耶観光ホテル時代の5階部分が増設された姿で、現存のものとは異なっている。ここから見る限り、特に異常があるようには感じられないが、この絵はがき集が発行された1970年代前半には、マヤカンは67(昭和42)年の台風被害によりホテルの営業を停止し、新たに学生向けの簡易宿泊所(摩耶学生センター)としての営業を開始している。
一方、ケーブル摩耶駅の西側にはいくつかの建物・施設が散見される。まず箱型の建物は、後でも登場する千万弗展望台(1970(昭和45)年3月竣工)である。そのすぐ背後にロープウェーの駅舎と、住宅地図に記載されていた「摩耶一茶」らしき建物が見えている。それらの左側に青屋根で白い2階建ての建物があるが、これはやはり住宅地図に記載されていた企業等の山の家とも思われる。これらに対して、千万弗展望台より下部の木立の中に確認される建物は、住宅地図に明確に記載されておらず、判然としない。まず展望台側に2ないし3つの建物があるが、大きさ・形状からバンガロー的なものと推察される。しかし1956年から64年頃の住宅地図に記載されたバンガロー村は、これより北西、以前紹介した「摩耶花壇」周辺にあって、これとは位置的に合致しない。これに対して、ケーブル会社の社史(年譜)によれば、1957(昭和32)年7月2日に「まやケーブル遊園地下にバンガロー村開村 10戸(1戸2~3人用)事務所、共同便所」、58(昭和33)年6月20日には「バンガロー増設 3戸増設(1戸4~5人用)事務所拡張 洗場新設」、62(昭和37)年6月10日「バンガロー増設 A型1戸(12人用)B型1戸(6人用)C型1戸(6人用)」、65(昭和40)年5月11日「バンガロー増設 A型1戸(12人用)C型をB型に改造1戸(6人用)」、さらに66(昭和41)年6月10日には「まやケーブル遊園地北側高台にバンガロー増設 A型1戸(12人用)B型1戸(6人用)」等と記載されている。よって、これらはこのバンガロー村の一部と想定される(左側の2階建のバンガローより明らかに大型の建物も、大型のバンガローか、バンガロー村の事務所と思われる)。同施設が何時営業を停止したかは記載されていないが、社史が発行された1982(昭和57)年までは営業を継続していたとも考えられる。いずれにしろ、住宅地図の記載とは若干異なる状態が存在していたようである。
絵はがき裏面(絵はがき1の裏面)
絵はがき2 国立公園・周遊指定地 まや山〔まやケーブル〕最新鋭のケーブルカーである。定員75名、線路延長965m、所要時間は5分、日本屈指の急勾配(約29°)を上下している。 Maya Cable-Car. National Park Mt. Maya, Kobe.
絵はがき3 国立公園・周遊指定地 まや山〔ケーブル千万弗展望台〕ケーブルまや(山上)駅遊園地にあり、ここからの眺望、特に夜景はすばらしい。 Observatory near the upper station of Cableway. National Park Mt. Maya, Kobe.
前回紹介した千万弗展望台である。竣工が1970(昭和45)年3月29なので、その直後から数年以内に撮影されたものと想定される。1階部分は桜の木々で確認できないが、実際には大部分が柱のみの吹き抜け状態となっていた。「UC」と表記された看板があるのが2階の喫茶室で、例のケーブル会社 社史によれば「喫茶室はUCC本社に委託経営、床はじゅうたん引きのかなりグレードの高い店造りをした」、「2階 軽食喫茶、客席数45席」等と記されている。UCCは1933(昭和8)年に神戸で開業した「上島忠雄商店」を母体に51(昭和26)年に「上島珈琲」が設立され、現在の「UCC上島珈琲」となった神戸のコーヒーを中心にした企業のことである(ホームページ参照)。ただし、同社は基本的に「Ueshima Coffee Corporation」を略したUCCを1970年頃から使用している一方、ここにはUCと表記されている。詳細は未確認であるが、同社は「上島珈琲店」を「珈琲館」等ともにチェーン展開させてきており、あるいはこの店舗をUCと略して表記していたのかもしれない。なお背後の市街地沿岸に薄茶に見えるているのは、当時埋め立て工事の進んでいた深江浜と思われる。現在はこの沖に六甲アイランド(1990年頃完成)がある。
絵はがき4 国立公園・周遊指定地 まや山〔摩耶山忉利(とうり)天上寺〕仏母摩耶夫人をまつる。安産と学徳成就の守り本尊。弘法大師、豊臣秀吉、赤松円心など、ゆかりの諸史蹟がある。宿坊3軒、精進料理がでる。 Tenjoji Temple, Which is dedicated to Maya, the mother of Buddha. National Park Mt. Maya, Kobe.
この写真が撮影された数年後にはこれらの伽藍はすべて焼失している。
絵はがき5 国立公園・周遊指定地 まや山〔まや山から神戸港を望む〕まや山は海抜700m、みなと神戸を眼下に阪神間の街から紀伊の連山、淡路島が絵のように眺められる。 Bird’s-eye view of the Port of Kobe from Mt. Maya. National Park.
前面には奥摩耶ロープウェーが写っているが、それに対する説明はなく、遠方に望む神戸方面の光景に焦点をあてている。最初に紹介した「まや山 全景」では、中腹部やケーブルが前面に目立つ一方、ロープウェーはほとんど確認できず、かつ山頂地区(奥摩耶)も遥か後方に配されている。さらに山頂地区では虹の架け橋やマウントコースターなどの遊園地は登場せず、後で紹介する摩耶ロッジが独自に取り上げられているだけである。これは考えすぎかもしれないが、ぞうもこの絵はがき集は山頂地区・ロープウェーよりケーブル・中腹地区を「優遇」しているようにも感じられる。なお先程の深江浜と同じく、埋立工事中のポートアイランドおよび先行して完成した神戸大橋(1970(昭和45)年竣工)等が確認される。
絵はがき6 国立公園・周遊指定地 まや山〔まや山から大阪方面の夜景〕眼下に見る夜の展望は誰しもすばらしいと絶唱する。1千万ドルの夜景と形容されている。 The 10 million-dollar night view from observatory near the upper station of Cable way. National Park Mt. Maya, Kobe.
絵はがき7 国立公園・周遊指定地 まや山〔国民宿舎、神戸摩耶ロッジ〕ロープウェー奥まや駅より徒歩6分。豊かな自然の緑と静けさ、すばらしい眺望に恵まれている。 Public lodging Kobe Maya Lodge. National Park Mt. Maya, Kobe.
これも前回紹介した通り、1970(昭和45)年4月11日に「国民宿舎 神戸摩耶ロッジ」が営業を開始している。この絵はがきはそれから間もない時期に撮影されたと思われる。なおこの絵はがき集を入手した際、以下の摩耶ロッジの絵はがきも一緒に入っていた。おそらくは最初の所有者がここに宿泊した際に一緒に購入したものが混じったものかもしれない。
絵はがき(参考) 国民宿舎 神戸市立 神戸摩耶ロッジ
絵はがき(参考) 国民宿舎 神戸市立 神戸摩耶ロッジ(裏面)
絵はがき8 国立公園・周遊指定地 まや山〔六甲山牧場〕スイスの山岳牧場を偲ばせる。しぼりたての牛乳が飲める。誰でも利用できる乗馬場の設備もあり、楽しい環境である。 Model Pasture. National Park Mt. Maya, Kobe.
六甲山牧場は摩耶山の北、東西の六甲ドライブウェーと奥摩耶ドライブウェーとの分岐点付近にある観光牧場である。ホームページの沿革によれば、1950(昭和25)年に「スイスの山岳酪農をモデルに畜産振興と観光的色彩をもつ高原牧場の開設を企画し、5年間の牧草栽培試験を実施」し、56(昭和31)年に「動物(牛2頭、羊3頭)の放牧開始」、72(昭和47)年には「市内酪農振興の拠点として乳牛265頭、羊130頭」までになったという。ただし「一般開放」は1976(昭和51)年と記されていることから、この時期は現在とは異なり、限定的な営業であったと推測される。]]>
摩耶観光ホテルについて44(資料41)
http://nk8513.exblog.jp/23433370/
2016-08-25T14:16:00+09:00
2021-10-02T15:11:14+09:00
2016-08-25T14:16:13+09:00
nk8513
未分類
地図1 『灘区 西部』ゼンリン、1971
1971(昭和46)年発行の住宅地図による摩耶山。発行者は1969(昭和44)年版と同じくゼンリンであり、範囲もほぼ同一だが、道路や等高線などの表記が若干変更され、より正確さを重視した形態となっている。内容的には以下のような変化が確認できるが、マヤカンを含め全体的には大きな違いはない。
ケーブル摩耶駅周辺:例によってマヤカンは「摩耶観光ホテル」のまま記載されている。以前紹介した資料では、この頃から管理人が居住を始めているとされている(1974(昭和49)年から学生センターとしての営業を開始)。次に注目すべきには、摩耶駅の西側にあった「子供スポーツカー乗り場」(69年版から記載)の南側に「千万弗展望台」が記載されていることである。これはケーブル会社の社史で紹介されている1970(昭和45)年3月29日から営業を開始した「コンクリート製2階建展望台」と思われる。同所には1958(昭和33)年8月21日に竣工した「木造展望台」があったが、「施設がお粗末で、木造で屋根もなく、台風のたびに補強修理を重ね風雨、寒冷の日には誰も寄りつかなかった。また、当時の摩耶山には若者向きのシャレた喫茶店もなかった」ためにこの展望台を建設したという。「1階と屋上は展望台で、2階は喫茶室」となっていたようであり、「当初はもの珍しさもあってなかなかの好評で予約貸室、会議、ダンスパーティなどのグループ利用が多かったが、すぐ後ろにもう一つ高い山があって、より高いところへ登りたい、という心理が働き、顧客需要の変化から現在(筆者注:1982(昭和57)年)は夏季のみ直営で営業している」と社史に記載されている。ここには昭和30年代以降の摩耶山頂部(奥摩耶地区)における遊園地等の開発、および1976(昭和51)年の天上寺焼失の影響を窺わせている。この展望台は、その後90年代前半の住宅地図までマヤカンと同様に記載されているが、震災後は名称が記載されず空白となり、2000年代に入ると建物が取り壊されたようで、記載されなくなっている。ただし、筆者が初めて摩耶山を訪れた1989(平成元)年には、すでに閉鎖され立ち入り禁止となっていたことから、80年代後半には喫茶室の営業を停止していたと推測される。コンクリート製とはいえ、かなり華奢な造りで、耐久性が十分ではなかったと思われる。一方、例の摩耶花壇と思しき施設(69年版は「アキヤ」)は記載されているが名称は無記載、その北西にあった茶屋(69年以前では個人名)も同様に無記載のままとなっている。
天上寺周辺:69年版からの変化は特に見られない。
山上(奥摩耶)地区:注目されるのが、69年版で建築中であった「奥摩耶国民宿舎」が「神戸摩耶ロッジ国民宿舎」と記載されている部分である。ケーブル会社 社史の年譜によれば、1970(昭和45)年4月11日に「神戸市営国民宿舎「神戸摩耶ロッジ」開業」と記載されており、これを反映したものと考えられる。他に「マヤ山上駅」の西側に「NHK摩耶山放送所」が設置、69年版まで記載されていたジェットコースター南にあった「みはらし亭」が記載されなくなった等の変化が確認される。
地図2 『灘区 西部』ゼンリン、1974
1974(昭和49)年発行の住宅地図による摩耶山。71年版以前と同じ範囲だが、等高線・道路を簡略化し、各施設の表記を大きく描いている。正確さより実用性を重視した形態に変更されている。71年から内容的に変化は確認できないが、マヤカンの表記がこれまでL字だったが単純な四角形で表現されている。
地図3 『灘区』ゼンリン、1976
1976(昭和51)年発行の住宅地図による摩耶山。74年版と形態は同一であり、マヤカンのあるケーブル摩耶駅周辺や山上(奥摩耶)地区に特に変化は見られない一方、天上寺周辺は大きく変貌した状況を確認できる。これは当然、同年1月30日に発生した天上寺伽藍の焼失の結果である。「本尊観世音(本堂)」「護摩堂」は記載されているが、74年版ではその周囲に存在した「摩耶夫人堂」「二重塔」「休憩所」「鐘楼」「大乗院」および住職の住居がすべて記載されていない(実際には本堂・護摩堂も焼失)。一方、これら伽藍より下部にある「蓮花院」「王蔵院」「一願地蔵」「神戸高校 磊磊舎 静嘿園」「大門」はそのまま記載されている。
地図4 『灘区 西部』ゼンリン、1974(天上寺付近)
地図5 『灘区』ゼンリン、1976(天上寺付近)
詳細は未確認だが、どうも火災は天上寺の上部部分のみであったようで、参道の階段途上にあった上記施設群には被害が及んでいなかったと推測される。実際、これらの建物の一部は現在でも廃墟状態で残存している点もこれを裏付けている。しかし、天上寺は以前紹介した通り、摩耶山頂部の摩耶別山に移転することになり、これらの建物のうち一部は取り壊され、また一部はそのまま放棄されていったと思われる。このように76年の地図では、天上寺部分が大きく変化しているが、この影響もあってケーブル摩耶駅周辺の施設もこの後徐々に閉鎖・取壊しが相次ぎ、その衰微が進行していくことになる。
追記:個人名についてはすべて修正した。
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摩耶観光ホテルについて43(資料40)
http://nk8513.exblog.jp/21929842/
2015-07-06T17:01:00+09:00
2021-10-02T15:12:27+09:00
2015-07-06T17:01:02+09:00
nk8513
未分類
地図1 『灘区 西部(観光と産業の神戸市住宅地図)』関西図書出版社、1966
1966(昭和41)年発行の住宅地図による摩耶山。発行者は64(昭和39)年以前の神戸地学協会から関西図書出版社となっているが、これが現・ゼンリンの前身の一社である(神戸地学協会との関係は不詳)。地図は等高線を表現している点では64年版と同様だが、全体的には範囲を限定して、諸施設を大きめに表現している。内容的には、ケーブル摩耶駅周辺はマヤカンを含めて特に変化はないが、現在廃墟化している摩耶花壇の周辺は無記名の建物が一棟あるので、64年に見られたバンガロー村は表記されていない。天上寺周辺は門前の茶屋と思しき建物も含め特に変化はなく、「神戸高校 静嘿園」も記載されている。一方、山上(奥摩耶)地区では、「あじさい池」が新たに記載、その東側のマウントコースターをジェットコースターと表記、その北側にあったサマーハウス村(バンガロー村)の記載がなくなった等の変化が確認される。
地図2 『灘区 西部(観光と産業の神戸市住宅地図)』関西図書出版社、1968
1968(昭和43)年発行の住宅地図による摩耶山。この68年の前年の67(昭和42)年は、摩耶観光ホテルが水害により営業を停止した年(映画『春日和』の撮影も行われた)であるが、神戸市立中央図書館には67年版は所蔵されてない。ただし灘区の東部版は67年版が存在する一方、逆に68年版は所蔵されていないことから、あるいは西部版の67年版は発行さていないとも考えられる。いずれにしろ前の66年版からこの68年版の間に、マヤカンに大きな変化があったはずであるが、地図には66年と変化なく「摩耶観光ホテル」と表記されている(厳密には建物の左上に「WC」(トイレ?)との表記が付加されている)。こうした状態はその後も継続し、先に紹介すると1995年、つまり阪神淡路大震災が発生した直後の版まで、住宅地図では一貫して摩耶観光ホテルと表記されつづけられているのである。これにはニつ、あるいは三つの可能性が想定できる。一つは、単なる未確認で、震災後に閉鎖状態であることを確認したというもの、もう一つには、正規のホテルの営業は停止したものの、摩耶学生センターという事実上の宿泊施設としての営業状態を考慮して、あえて以前の耶観光ホテルの名称で表記したという可能性である。おそらくは後者が正解だとは考えられるが、この68年から70年代前半までは、学生センターとしても営業していなかったはずで、これは未確認というより、閉鎖が一時的なものかどうか、先行きが不透明であったため、とりあえず以前の表記のままにしたとも考えられる。なお内容的にはあまり変化はないが唯一、ケーブル摩耶駅周辺に「喫茶MAYA77」という施設が新たな施設として確認される(詳細は不明)。
地図3 『灘区 西部』ゼンリン、1969
1969(昭和44)年発行の住宅地図による摩耶山。発行者がゼンリンに変更になったものの、前述のとおり関西図書出版は同社の前身であることから、地図の表現は同一の形態となっている。内容的には以下のような変化が確認できるが、マヤカンを含め全体的には大きな違いはない。
ケーブル摩耶駅周辺:それまで「チエンタワー」と表記された部分が、ここでは「子供スポーツカー乗り場」と変更、また「大阪チタニューム山の家」と表記された2つ建物の内、一つが単に「山の家」、もう一つは「大阪税関芦屋市職員互助会」との表記となっている。このうち前者に関して、ケーブル会社の社史『六甲山とともに五十年』の年譜によれば、69年4月25日に「まやケーブル遊園地に子供用スポーツカー設置 スポーツカー10台(ロータリー、車庫工事)」と記載されているので、これを示していると思われる(タワーについての記載なく、いつ撤去されたか不明)。後者は、おそらくバンガロー的な建物の所有者・管理者が変更になったものと考えられる。また現・摩耶花壇は、これまで無記載であったが、ここでは「アキヤ」と表記されている。
天上寺周辺:これまで無記名の建物はいくつか記載されていたが、ここでは「護摩堂」「休憩所」「鐘楼」と記載され、さらに個人名の建物が分割され、一つ「二重塔」(多宝塔)と表記されている。
山上(奥摩耶)地区:「マヤ山上駅」にあった「食堂」「マヤ山派出所」の記載がなくなり、代わって「2Fレストラン十字路」と表記され、またあじさい池の東側に「野外ステージ」が付加、またその北側の個人名だった建物が「神戸市交通局係員詰所」、駅西方の「ユースホステル奥摩耶ハウス」が「市立摩耶高校市立御影工高奥摩耶ハウス」、そして旅館「奥摩耶山荘」の部分が「奥摩耶国民宿舎(仮名)建設中」と、それぞれ名称が変更されている。このうち奥摩耶山荘に関して、先の社史の年譜によれば、この翌70年4月11日に「国民宿舎神戸摩耶ロッジ」が開業していることから、この時期には奥摩耶山荘は営業停止、建物も撤去され、摩耶ロッジの建設が開始されていたことを確認できる。
追記:個人名についてはすべて修正した。]]>
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