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2015年 03月 13日
資料紹介34 リーフレット「静かな奥摩耶山荘」、神戸市電弘済会?、1950年代後半? ![]() 静かな奥摩耶山荘1 かつて奥摩耶(摩耶山頂)地区に存在したホテル「奥摩耶山荘」のリーフレット。発行年は特に記載されていない。同ホテルは1954(昭和29)年7月に開業しているが、ここに紹介されている奥摩耶地区には1955(昭和30)7月に営業開始した「奥摩耶ロープウェー(現・まやビューライン夢散歩)」が記載され、また1956(昭和31)年7月に完成したとされる「マウントコースター」などに代表される施設が紹介されていることから、早くとも50年代後半以降の制作と思われる。またホテルの電話番号が修正されていることから、その後1960年代後半まで使用・頒布されていたものとも想定される。マヤカンが摩耶観光ホテルとして営業していたのは、1961(昭和36)年から67(昭和42)年であるので、この時期摩耶山には2つの宿泊施設が存在していたことになる。その後、奥摩耶山荘は1970(昭和45)年前後に営業を停止し建物は撤去されて、同年4月に新たに「国民宿舎摩耶ロッジ」が新築されて再オープンした(現「オテル・ド・マヤ」の前身)。 ![]() 静かな奥摩耶山荘2 左下の建物はホテル西側に存在した別館の建物のようである。一方、右の部分には「32室100名収容」などのホテルの概要、その下部には奥摩耶地区の説明等が記されている。 ![]() 静かな奥摩耶山荘3 1950年代後半から70年代にかけて「奥摩耶遊園地」として機能していた奥摩耶地区の諸施設が地図で紹介されている。マウントコースターのレイアウト等が確認できるが、他にも地図の右下にかつて存在していた「ユースホステル」の建物も記載されている(下図も参照)。ここは現在はテレビ局等の電波中継施設が立ち並んでいる。同時期のガイドブックや住宅地図などから、正式名称は「ユースホステル奥摩耶ハウス」であったらしい。その正確な営業期間は不明だが、同時期の住宅地図によれば、50年代後半は「林間学校 奥摩耶ハウス」と記載されていたが、60年代前半にはユースホステルとなり、70年代前半には神戸市立高校の施設(それでも名称は奥摩耶ハウス)となっていた。さらに70年代後半には建物自体の記載がなくなっており、おそらくこの時期に解体撤去されたものと考えられる。 また地図左下には「奥の院跡」「一本杉」の記載があるが、ここに現在は天上寺の伽藍が存在している。この当時、天上寺はまだ摩耶山中腹(現・史跡公園)にあったが、1976(昭和51)年1月に火災によりほぼ全焼した。その後、80年代に入って天上寺創建の場所と伝承され、一本杉があったこの地に伽藍が再建されている。 ![]() 静かな奥摩耶山荘4 左中に前述したユースホステルの建物が掲載されている。 ![]() 静かな奥摩耶山荘5 ここに登場する「名物かまぶろ」は、以前紹介した絵はがき集でも確認できるものである。 ![]() 静かな奥摩耶山荘6 左下の「観光放牧場」は1956(昭和31)年に開業した観光牧場で、現在の「六甲山牧場」の起源となる施設である。 ![]() 静かな奥摩耶山荘7 なお上記リーフレットは「摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料」で紹介していたが、ここで改めて紹介する。 #
by nk8513
| 2015-03-13 16:39
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2015年 02月 06日
資料紹介33 「軍艦ホテル」(朝日新聞神戸支局編『兵庫の素顔』海文堂、1977(昭和52)年7月、174-175ページ) ![]() 軍艦ホテル1 マヤカンが摩耶学生センターと称されていた時期に紹介した記事。これは元々、1977(昭和52)年1月から6月に朝日新聞の第二兵庫版および第二阪神版に連載された「兵庫の素顔」シリーズ内の1記事(掲載日未確認)であったものを、同年7月に朝日新聞神戸支局がまとめた同名の書籍に掲載されたものである。 ![]() 軍艦ホテル2 この記事の重要な点は2つあり、1つは摩耶観光ホテルが閉鎖され、廃虚になりかかりながらも、学生向けの宿泊施設として利用されていた時期を記録していることにある。ケーブル会社や行政、あるいは郷土史家等による文献に、マヤカンは比較的多く記載されているが、そのほとんどは戦前の摩耶山温泉ホテルか戦後の摩耶観光ホテル時代のことに専ら注目し、この記事に記載されている廃虚あるいは摩耶学生センターの状況についてはほとんど触れられていない。特に、摩耶観光ホテルとして再デビューしたが、「四十ニ年(1967年)夏の台風被害から立ち直れず三たび閉鎖」した点、さらにその後、管理人(実名記載されているが、ここでは空白に修正)が住み込み、やがて「学生のゼミ、サークル合宿などに限って施設の一部を開放した」などは、廃虚ブームに関連した関連書籍に引用されるまで他に記されなかった事柄である。 ![]() 軍艦ホテル3 ![]() 軍艦ホテル4 次に重要なのは、前の引用にみられるように、この記事がその後に記載・出版される郷土誌・社史やそれらに基づく廃虚関連書籍などのマヤカンに対する主要な参考文献となっていることにある。摩耶学生センター時代以降の状況については、宿泊利用者の証言以外ではこの記事が唯一のデータソースとなっており、やや飛躍すればマヤカンの歴史を証明する資料となっているのである。逆にこの記事がなければ、私がかつて結核などの療養所であったなどという噂話を聞いたように、マヤカンの来歴についておそらく様々な話が混在・構築されていたとも想像される。ただし、記事内にある「アールヌーボー風の洋風ホテル」という記載は、郷土誌や初期の廃虚関連書籍(『懐古文化綜合誌 萬』愚童學舎、1999など)にそのまま引用されているが、実際はマヤカンが建てられた時期および形態からアール・デコ様式と思われる(近年の文献資料には記載・多)。このような負の影響力(他にも「昭和七年春に建てた」とあるが、実際は1929(昭和4)年11月竣工)も存在するが、それでもマヤカンの歴史にとっては、古い絵はがきやリーフレット以上の資料的価値を有するものと評価される。 ![]() 軍艦ホテル5 書籍版にはここにあげた空撮されたと思われるマヤカンの写真が掲載されている(オリジナルの新聞記事に掲載されたかは未確認)。白黒写真とはいえ、よく見ると外壁などが傷んでいるような状況がうかがえるものの、1929(昭和4)年に竣工したベース部分に、摩耶観光ホテル時代に増設された部分(主に5階)が明確に存在し、現在残されている状態と明らかに形態的に異なっている。吉川晃司が主演した映画「ユー☆ガッタ☆チャンス」(1985(昭和60)年2月公開)の時には、増設部分の大半が撤去され、ほぼ現存する状態になっていることから、1970年代末から80年代前半にかけて、それなりの規模の改修工事が行われたと推測される。これは『懐古文化綜合誌 萬』などが記す「グリルから出た火が元で営業を停止。八十年代中頃に閉鎖」という話と関連したものかもしれない(実際は摩耶学生センターは1993(平成5)年頃まで営業継続している)。 また近年、ネット上でB-29のものではないかとの噂が一部で指摘されていた航空機の車輪であるが、屋上中央部分に固定されている様子が確認できる。この部分は戦前の摩耶山温泉ホテルの時期には使用を確認できる資料は存在しないが、摩耶観光ホテルの時には、「屋上ビアガーデン」あるいは「スカイビアガーデン」と呼ばれ、車輪の回りにベンチ・テーブルが並べられていた(中央奥に建っている小屋はその時に使用されたものと推定、1990年代前半まで存在)。なぜ車輪なのか、オブジェとしてもよくわからないが、それは明らかに上空からホテルに落ちてきたものではない。ただし、戦時中にホテル周辺に落ちてきたものを保管していたという仮説もたてられないわけではないが、それも常識的とは思えない。 #
by nk8513
| 2015-02-06 00:51
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2015年 02月 05日
資料紹介32 絵はがき集「国立公園 まや山 NATIONAL PARK Mt.Maya」、摩耶鋼索鉄道株式会社、1950年代後半(昭和30年代前半)? 摩耶ケーブル会社が、摩耶山の再活性化した1950年代後半に販売したと思われる絵はがき集。以前紹介したもの(A・B)と同時期のものと思われる。このいずれも白黒写真に彩色したものであったが、今回の絵はがきも同様である。表紙には特に記載はなされていないが、はがき裏面に「摩耶鋼索鉄道株式会社」と記載されており、同社の発行であることが確認できる。また「京都 日本写真印刷印行」ともあって、これはそこで印刷されたことを示していると思われる。ケーブル会社によるものということで、ロープウェイ開通と同時に遊園地として整備された山頂地区は、奥摩耶山荘からの夜景のみであり、代わってケーブル摩耶駅周辺の展望台などが紹介されている。これは明らかに、以前紹介した2つとは異なる特徴といえよう。ただし、当時営業停止していたと考えられるマヤカンについては、摩耶山全景で確認されるのみである。 ![]() まや山全景におけるマヤカン ![]() 表紙 ![]() 絵はがき1 最急勾配をゆくケーブルカー Cable-car going up the steep grade. ![]() 絵はがき2 ケーブル沿線の新緑 Vendure alomg the cable-car railway. ![]() 絵はがき3 ケーブル山上展望台 View-place at the cable-car terminal. ![]() 絵はがき4 ケーブル山上遊園地の桜花 Cherry-blossoms in the park at the cable-car terminal. ![]() 絵はがき5 まや山天上寺の多宝塔 Pagota of Tenjoji-temple, Mt.Maya. ![]() 絵はがき6 奥まやロープウェー Aerial railway of the interior Mt.Maya. ![]() 絵はがき7 奥まや山荘よりの夜景 Night scenery from Hotel Okumaya Sanso. ![]() 絵はがき8 まや山全景 The whole landscape of Mt.Maya. 以前紹介した絵はがき集にも同様のものがあったが、これは前のものより西側から摩耶山を見上げた構図となっている。中央に途中トンネルで分断されているもののケーブルカーの路線、尾根筋の左上に山頂部の施設、ケーブル路線のすぐ左に中腹部の施設などが確認できるが、何よりもケーブル右側に一際目立つのがマヤカンである。彩色しているせいか、煙突が円錐形になっていたりして不鮮明ではあるが、形態的には以前の絵はがきと同様に増築前の姿である。よってこの絵はがきは、マヤカンが増築され再デビューする1961(昭和36)年以前の状況を示していると思われる。 ![]() 表紙カバー裏面に記された略地図 以前紹介したもの(A・B)とは異なり、まや駅の西側に「ケーブル遊園地」が記載されている。当然これは、絵はがき集の発行者がケーブル会社であることによる影響と思われるが、営業停止していたと考えられるマヤカンは記載されていない。 ![]() 絵はがき裏面 なお上記絵はがき集は「摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料」で紹介していたが、ここで改めて紹介する。 #
by nk8513
| 2015-02-05 10:24
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2015年 02月 04日
資料紹介31 絵はがき集「国立公園 奥摩耶 Okuyama National Park」、1956(昭和31)年頃 第二次大戦後の1955(昭和30)年に摩耶ケーブルが復活、合わせてロープウェイも開通し、摩耶山を含めた六甲山地域が瀬戸内国立公園に指定編入された56(昭和31)年頃に発行されたと思われる絵はがき集。構成は実質7枚からなるが、後に紹介する夜景のものは2枚分(分割可能)を使用しているので、8枚組ともとらえられる。タイトルの通り奥摩耶、つまり摩耶山頂部を中心にした内容であり、戦前から整備されたケーブル摩耶駅周辺(摩耶山中腹部)は、天上寺のみが登場するだけで、マヤカン等は確認できない。これは当時、奥摩耶の観光施設の整備が進んだ一方で、元の中心であった中腹部は、ケーブルとロープウェイの単なる乗り換え地点になっていたためと推測される(「摩耶観光ホテルについて12(資料9)」も参照)。発行は特に記載がなく不明なままだが、表紙裏の地図の下に丸に「大」の紋が描かれ、横に「神戸店納」と記載されている。このことから、この絵はがき集は、神戸元町の大丸神戸店で販売されていたものと考えられる。なお絵はがきは、一見カラーなのかと感じられるが、実際には白黒写真に彩色したものである。 ![]() 表紙 ![]() 絵はがき1 国立公園奥摩耶 摩耶ケーブル Cablecar to Maya. ![]() 絵はがき2 国立公園奥摩耶 奥摩耶ロープウェー Ropeway to Oku-Maya. ![]() 絵はがき3 国立公園奥摩耶 遊園地と展望台 虹の懸橋 Oku-Maya Recreation Ground. ロープウェイ開通と同時に整備された山頂地区の光景。中央やや上に七色に彩色されたカバーのある場所が、「虹のかけはし」と呼ばれた展望台である。 ![]() 絵はがき4 国立公園奥摩耶 マウントコースター Mount Coaster. 当時の奥摩耶には、虹のかけはしとともに様々な遊戯施設も存在していたが、現在でもその魅力が語り継がれるものが、ここに登場する「マウントコースター」である。これは参考サイトによれば、1956(昭和31)年7月25日に「完成」(オープンか?)し、このはがきの通り、「山上を周回したあと大きく山を飛びだし眼下の市街地へ飛び出した」(ナダタマ-ナダ用語辞典)、小規模ながらスリルある乗り物として人気を博したという。1970年代に摩耶山観光の不振から撤去されたが、その痕跡が80年代に整備された自然観察園内に今も残されている。 参考サイト ナダタマ-ナダ用語辞典:灘の用語-1:あ行;奥摩耶遊園地 情報誌「なだだな」4号(1999.4) 神戸文書館 神戸歴史年表 ![]() 絵はがき5 国立公園奥摩耶 千万弗の夜景 Nightview of KobeCity. 現在、掬星台からの夜景は「日本三大夜景」に数えられ、その美しさで全国的にも有名であるが、この絵はがきにある通り、千万ドル、一千万ドルの夜景などとも表現されている。三大夜景や美しい夜景に対して、しばしば「百万ドルの夜景」と表されているが、この理由については諸説が存在して判然とはしない。ただし摩耶山の夜景については、六甲山からの夜景が百万ドルと表されていたことに対して、同地のそれはより美しいとのことで千万ドルになったといわれている。 参考文献:『六甲山とともに五十年』六甲摩耶鉄道株式会社、1982、56頁 ![]() 絵はがき6 国立公園奥摩耶 ホテル奥摩耶山荘「かまぶろ」 “Kamaburo” bath-room of the Hotel Okumaya. 奥摩耶山荘は、1954(昭和29)年7月から1970(昭和45)年頃まで奥摩耶で営業していたホテルである。当時ホテルの名物として、食事は摩耶鍋(これはマヤカンでも出していた)、そしてここにある釜風呂が知られていた。なお奥摩耶山荘は、70年に解体され、跡地に国民宿舎摩耶ロッジがつくられた。その建物は現在「オテル・ド・摩耶」というホテルにリニュアルされている。 ![]() 絵はがき7 国立公園奥摩耶 摩耶天上寺 The Maya Tenjoji Temple. ![]() 表紙裏に記載された地図 前述の通り、これによってこの絵はがき集が大丸神戸店で販売されていたと推測できる。 ![]() 絵はがき裏面 なお上記絵はがき集は「摩耶山および摩耶観光ホテル関連資料」で紹介していたが、ここで改めて紹介する。 #
by nk8513
| 2015-02-04 13:30
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2015年 01月 08日
資料紹介30 絵はがき集「摩耶山参拝記念絵葉書」、天上寺? タイトルが示唆するように、天上寺を中心にした絵はがき集。前回紹介した「摩耶山参拝記念絵葉書」と同一タイトル、表紙および絵はがき裏面の装丁等が類似・同一(桐/葵紋)であることから、天上寺が発行した可能性が高いと思われる。今回紹介するのは3枚であるが、実写ではなくイラスト・絵図となっている。ただし、天上寺の有名な石段参道の光景を描いたイラスト絵はがきをネット上で確認しており、元々この絵はがき集は少なくとも4枚構成か、あるいはそれ以上であったと考えられる。発行年は例によって不詳であるが、マヤカンと思しき建物が描かれていることから1930(昭和5)年から35(昭和10)年頃と推測される。 ![]() 絵はがき1 佛母摩耶山 これは当時の摩耶山の中核たるケーブル摩耶駅付近および天上寺の伽藍を中心に描かれている。外界の神戸市街地と摩耶山の方向が実際より若干ズレている(実際には南向きだが、これは東南向き)が、摩耶駅の右下にマヤカン(摩耶山温泉)らしき建物が確認される。また以前の資料で紹介したように、桜の名所であったこともあって桜のようなピンク色に着色された樹木が多く描かれている。一方、天上寺については、山門あたりからの石段からいくつかの堂宇が確認できる。ただし上部にある三重塔は、実際には多宝塔である(以前紹介した資料A・B・Cも同じ)。これらは単なる誇張と考えられるが、一方で江戸期には三重塔が存在していたようであり(藤木喜一郎「昔の旅行者が見た摩耶山」神戸史談215、1959)、多宝塔は本来の姿ではないという意識が影響したとも推測される。 ![]() 絵はがき2 摩耶山奥の院 こちらでは天上寺の「奥の院」、すなわち摩耶山頂(奥摩耶)付近の状況を描いている。「ハ洲嶺」は現在、テレビラジオ中継所が建っている場所(1955~70(昭和30~45)年頃にユースホステル奥摩耶ハウスが存在)、「天狗岩」「熊笹」が698.6mの三角点が存在する摩耶山頂(最高地点は702m)で、この辺りは現在でも熊笹が生い茂る中に天狗岩大神など、いくつかの小祠が点在している。一方「掬星台」は、現在のロープウェイ星の駅(旧・摩耶山上駅)から展望台のあるあたり、第二次大戦中に高射砲陣地として整地され、1955~80(昭和30~55)年頃には奥摩耶遊園地が存在した場所、「元摩耶」は天上寺が最初に創建されたとされる場所(摩耶別山717m)で、1976(昭和51)年の天上寺火災後に新たな堂宇がここに再建・移転されて現在に至っている。なおハ洲嶺は1863(文久3)年正月、当時の幕臣 小笠原長行が海防巡見の際に命名(有名なので出典省略)、掬星台は長州出身の官僚 服部一三が兵庫県知事在任中(1900(明治33)年10/25-1916(大正5)年4/28)に命名したものという(「摩耶山案内 1929」)。また「赤松円心墓」は、正確には元弘の乱(1331-33年)時に摩耶山に籠城した赤松則村(円心)およびその子息 則祐の供養塔2基であったが、戦時中に「心ない悪戯で谷底に落とされ、碑だけが残された」といい、現存しない(『むかしの神戸』神戸新聞出版センター、1997)。 ![]() 絵はがき3 摩耶山古圖 古図と題されているが詳細は不明。絵はがき集の特徴からして、天上寺所蔵のものとも推測される。六甲山方面(北東方向)から摩耶山・天上寺および東南地域、大阪湾、西南には須磨・淡路島、はるか南に泉州・和歌山方面(天守閣のうような建物は大坂か岸和田、塔があるのは四天王寺か堺あたりか?)を誇張して俯瞰している。さらにこれも詳細不詳ながら、江戸中期の公卿・歌人であった日野資枝(1737-1801)の和歌が挿入されている。
![]() 表紙 ![]() 絵はがき裏面 #
by nk8513
| 2015-01-08 00:00
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